第22話「グレイウルフとの遭遇」
夜が明け、村は静かだった。昨夜の見張りでは、グレイウルフの姿は確認されなかったものの、遠吠えは断続的に聞こえ続けていた。ライルは早朝、フィリスとコルと共に朝食を取りながら、今日の計画を話し合っていた。
「今日は午前中に森の罠を確認しに行くつもりだ」ライルはパンをちぎりながら言った。「もしかしたら、すでに効果があったかもしれない」
フィリスは心配そうな表情を浮かべた。「一人で行くの?」
「ガルド村長にも声をかけるつもりだよ。安心して」
コルは決意に満ちた様子で鳴き、ライルの横に立った。一緒に行く意思を示しているのは明らかだった。
「コルも連れて行くつもりだよ」ライルはその銀色の毛並みを優しく撫でた。「彼の感覚は僕らよりずっと鋭いからね」
朝食を終えると、ライルはガルド村長の家を訪ねた。しかし、村長はすでに別の用事で出かけていたという。
「急ぎの用事で隣村に行ったわ」村長の奥さんが教えてくれた。「夕方には戻るはずよ」
ライルは少し迷ったが、罠の確認は急務だと判断した。コルといれば道に迷うこともないだろう。
「コル、二人だけで行くことになったけど、大丈夫かな?」
コルは自信ありげに尾を振った。ライルは村の北門を守る見張りに今日の予定を告げ、森へと足を踏み入れた。
木々の間から差し込む朝の光は、森の中に美しい光のパターンを作り出していた。春の森は生命力に満ち、鳥のさえずりや小動物の気配が感じられる。しかし、その平和な雰囲気の中にも、何か違和感があった。普段よりも鳥の声が少なく、森全体が静かすぎるのだ。
「なんだか静かだね」ライルは小声で言った。
コルも警戒を強めたようで、耳をピンと立て、周囲を注意深く見回している。二人は昨日設置した罠のある場所へと向かった。
最初の罠に近づくと、コルが突然立ち止まり、低い唸り声を上げた。
「どうしたの、コル?」
コルはライルの前に立ちはだかるように位置を取り、森の奥を見つめている。その金色の瞳には明らかな警戒心が浮かんでいた。
ライルも慎重になり、手にしていた杖をしっかりと握り直した。静かに一歩一歩進むと、最初の罠が見えてきた。しかし、罠は作動していなかった。トリガーは無傷で、落下する木の枠もそのままだった。
「作動していないね」
二人は次の罠へと向かった。しかし、途中でコルが再び立ち止まり、今度は明らかに緊張した様子で唸り声を上げた。そして突然、コルはライルの袖を噛んで引っ張った。
「隠れろってこと?」
コルは頷くような動きをした。ライルはすぐに近くの太い木の陰に身を隠した。コルも静かに彼の隣に潜り込んだ。
しばらく静寂が続いた後、遠くから枝が折れる音が聞こえてきた。誰かが——いや、何かが近づいているのだ。
ライルの心臓が早鐘を打つ。コルは体を低くし、いつでも飛びかかれる態勢を取っている。
やがて、枝の向こうから姿が現れた。それは——グレイウルフだった。
通常のオオカミよりも一回り大きく、灰色の毛並みは所々青みがかっており、目は不気味な赤色に光っている。確かに魔力を帯びた獣の姿だった。
ライルは息を殺し、じっと動かずにいた。グレイウルフは辺りの匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと歩いている。幸い、風向きは彼らに有利で、獣は二人の存在に気づいていないようだった。
グレイウルフは二つ目の罠の方へと進んでいった。ライルとコルは静かにその後を追った。
獣が罠に近づいたとき、突然コルが飛び出した。
「コル!」
ライルの叫び声が森に響いた。コルはグレイウルフの注意を引きつけるように、罠の手前で立ち止まり、挑発するような鳴き声を上げた。
グレイウルフは怒り狂ったように唸り、コルに向かって飛びかかった。しかし、コルはすばやく身をかわし、罠の上を飛び越えた。
その瞬間だった。グレイウルフが罠のトリガーを踏み、木の枠が落下した。しかし、獣の反射神経は想像以上に速く、枠がわずかに体を掠めただけで逃れた。
「うまくいかなかったか!」
グレイウルフは怒りに満ちた目でライルを見た。今度は人間の方に標的を定めたようだ。
獣が大きく息を吸い込んだとき、ライルは不思議な感覚に襲われた。グレイウルフの口から、青白い炎のような息が吐き出されようとしていた——魔力の息吹だ。
ライルは身を守るように杖を構えたが、その瞬間、銀色の影が彼の前に立ちはだかった。コルだ。
コルの体から突然、金色の光が放たれた。それは《天恵の地》のスキルとは違う、神獣固有の力に満ちていた。その光のバリアが、グレイウルフの魔力の息吹を受け止めた。
「コル……!」
ライルは驚きの声を上げた。これまで見たことのない、コルの真の力だった。
コルはライルを守った後、さらに驚くべき行動に出た。彼の体はより輝きを増し、サイズも少し大きくなったように見えた。そして、グレイウルフに向かって飛び掛かったのだ。
獣と神獣の一騎打ちが始まった。コルの動きは風のように素早く、グレイウルフの攻撃をかわしながら、鋭い牙で相手の脚を狙っていく。グレイウルフは力で勝るものの、コルのスピードについていけないようだった。
ライルもただ見ているわけにはいかなかった。彼は杖を持ち上げ、《天恵の地》の力を意識した。これまで畑や植物にしか使ったことのないスキルだが、今は応用が必要だった。
「大地よ、力を貸して!」
ライルの足元から緑色の光が広がり、地面を伝ってグレイウルフの周囲まで達した。突然、獣の足元から小さな蔦が伸び、その脚に絡みついた。グレイウルフは一瞬動きが鈍り、そのわずかな隙をコルが見逃さなかった。
コルは獣の首元めがけて跳躍し、その牙を食い込ませた。グレイウルフは苦しげな悲鳴を上げ、激しく体を振った。コルは放り出されそうになりながらも、必死に食らいついていた。
激しい闘いの中、ライルはやがて気づいた。グレイウルフの体から微妙な変化が起きていることに。魔力を帯びた青みがかった毛が、少しずつ通常のオオカミの色に戻りつつあった。
「コルの力が魔力を浄化している!」
ライルはその機会を逃さなかった。再び《天恵の地》の力を込めて地面に触れると、今度はさらに多くの植物が獣の体に絡みついた。グレイウルフの動きは完全に封じられ、やがて力尽きたように地面に倒れ込んだ。
コルもまた、体力を使い果たしたのか、獣の側で息を切らせていた。その金色の瞳は、しかし誇らしげに輝いていた。
ライルは慎重に近づき、倒れたグレイウルフを確認した。獣は完全に気を失っているようだが、不思議なことに体からは魔力が消え、普通のオオカミに戻りつつあった。
「コル、大丈夫?」
ライルはコルの傍に膝をつき、その体を優しく抱き上げた。コルは疲れた様子ながらも、ライルの手を舐め、無事を伝えようとした。
「すごいね、君は本当に神獣なんだね」
コルはその言葉に誇らしげな表情を見せた。
二人が休んでいると、森の中から声が聞こえてきた。
「ライル君! 無事か!」
ガルド村長と数人の村人が駆けつけてきた。朝のうちに村に戻ったガルドが、ライルの森への単独行を聞いて心配し、すぐに救援に来たのだ。
「村長! 皆さん!」
ガルドは倒れたグレイウルフを見て驚きの声を上げた。
「なんということだ……君一人でこの魔獣を?」
「いいえ、コルと一緒に」ライルは銀色の神獣を抱きかかえたまま答えた。「彼が私を守ってくれたんです」
村人たちはコルを畏敬の念を込めて見つめた。銀の守り手の伝説が真実だったと確信したのだろう。
「村に戻ろう」ガルドは言った。「このオオカミはもう魔力を失っているようだ。森に置いておこう。仲間を連れて遠くへ去るだろう」
村への帰り道、ライルはコルを大切に抱いていた。コルは疲れて眠りについていたが、その銀色の毛並みは太陽の下で美しく輝いていた。
村に戻ると、ライルとコルの戦いの話はあっという間に広まった。村人たちは彼らを英雄のように迎え、特にコルに対する敬意は一層深まった。
「銀の守り手が村を救った!」
「神獣の加護を受けた村なんだ!」
フィリスは家で心配しながら待っていた。ライルとコルの姿を見ると、安堵の表情を浮かべながらも、すぐにコルの状態を心配した。
「大丈夫? 怪我はない?」彼女はコルの体を調べながら尋ねた。
「疲れているだけみたいだよ」ライルは答えた。「フィリス、コルはすごかった。本当の神獣の力を見せてくれたんだ」
フィリスは静かに頷いた。「そうね……彼の力が少しずつ戻ってきているのを感じていたわ。でも、まだ全力ではないはず」
その夜、村は平和を取り戻したことを祝う小さな集まりが開かれた。ライルとコルは主賓として村広場の中央に座った。村人たちは彼らに感謝の言葉をかけ、新鮮な食べ物や手作りの品々を贈った。
コルはすっかり元気を取り戻し、子供たちの間を走り回って喜ばせていた。もはや彼の存在を村から隠す必要はなくなったようだ。
ガルドが村人たちの前で宣言した。
「今日、我が村は守られた。銀の守り手とライル君の勇気によってね。これは昔からの伝説が現実となった証だ。彼らは我が村の守護者だ」
人々が歓声を上げる中、フィリス(変装した姿で)がライルの隣に座り、小声で言った。
「あなたとコルの絆が強まったのを感じるわ。契約者と神獣の関係が深まるとこうなるのね」
「うん、戦いの中で、言葉がなくても彼の考えていることがわかったんだ」ライルは驚きを込めて言った。「不思議な感覚だったよ」
祝いの集まりが終わり、夜も更けた頃、ライル、フィリス、コルの三人は家に戻った。疲れてはいたが、心地よい満足感に包まれている。
コルは暖炉の前で丸くなり、安らかな寝息を立てていた。フィリスはそんなコルを優しく見守りながら、ライルに言った。
「今日の出来事で、村人たちの私たちへの信頼はさらに深まったわね」
「ああ、これからもっとこの村のために力を尽くしたいと思うよ」ライルは窓の外を見ながら答えた。「王都から追放されて、最初はどうなるかと思ったけど……今は感謝してる。この村に来ることができて」
フィリスは少し意味深な表情を浮かべた。「運命というものは不思議ね。でも、今日の出来事は始まりに過ぎないかもしれないわ。私の力も少しずつ戻ってきている。そして……」
彼女は言葉を切り、窓の外を見た。
「何か予感でもあるの?」ライルは尋ねた。
「ええ、少しね」フィリスは静かに答えた。「でも今日は休みましょう。明日から新しい日々が始まるわ」
三人の平和な夜が更けていく中、村は静けさを取り戻していた。ただ、その静けさの中にも、何か新しい変化の前兆が感じられるような、そんな空気が漂っていた。