第20話「魔獣情報と村の不安」
朝露が輝く穏やかな朝、ライルは畑の作業に集中していた。春から初夏へと移り変わる季節の中、作物たちは《天恵の地》の恩恵を受け、すくすくと育っている。トマトはすでに赤い実をつけ始め、レタスは見事な大きさに成長していた。
コルも畑の中を元気に駆け回り、時々立ち止まっては地面の匂いを嗅いでいる。その姿を見てライルは微笑んだ。
「ライル! ライル!」
突然の声に振り返ると、メリアが息を切らせて駆けてきた。いつもの明るさがなく、表情には焦りの色が浮かんでいる。
「メリアさん、どうしたんですか?」
「大変なの」メリアは息を整えながら言った。「北の村から連絡があったの。グレイウルフの群れが現れたって」
「グレイウルフ?」ライルは初めて聞く言葉に首を傾げた。
「魔獣よ」メリアの表情は真剣だった。「普通のオオカミより大きくて凶暴で、魔力を帯びた獣。かつてこの地域にも出没したことがあるんだけど、長い間姿を見せなかった。でも今、北の森で目撃されたって……村長が緊急会議を開くって」
コルがその話を聞いたのか、急に立ち止まり、耳をピンと立てた。その金色の瞳には警戒の色が浮かんでいる。
「会議はいつですか?」
「午後よ。村の広場で。ライルも来てほしいの」メリアは言った。「あなたは王都にいたから、魔獣に関する知識もあるでしょう?」
実際には、ライルは魔導士養成院で理論は学んだものの、実際の魔獣に対処した経験はなかった。しかし、何か協力できるかもしれない。
「わかりました。行きます」
メリアが去った後、ライルは急いで家に戻った。フィリスに状況を説明すると、彼女は思いがけず真剣な表情になった。
「グレイウルフ……そう、確かに危険ね」フィリスは窓の外を見つめながら言った。「大地の力を汚染するタイプの魔獣よ。私の力が戻っていれば……」
彼女は言葉を切った。まだ完全に力を取り戻せていないフィリスにとって、魔獣の対処は難しいようだ。
コルは床の上で丸くなり、小さな鳴き声を上げた。どこか不安げな様子だ。
「大丈夫、コル」ライルはその頭を撫でた。「一緒に村を守ろう」
午後、村の広場は多くの村人で埋め尽くされていた。ガルド村長を中心に、老若男女が集まり、緊張した空気が漂っていた。ライルも人々の中に混ざり、静かに話を聞いた。
「皆さん、静かに」ガルド村長が声を上げた。「北の村から使者が来ています。彼の話を聞きましょう」
前に立ったのは疲れた様子の若い男性だった。彼の服は埃と汗で汚れ、長旅の痕跡が見て取れる。
「私はタル。北の谷間の村から来ました」彼は少し震える声で言った。「三日前、我が村の牧草地で羊が襲われました。そして昨夜、村の外れの家が襲撃されたのです。幸い人的被害はありませんでしたが……」
タルは一息ついてから続けた。
「村の猟師たちが足跡を追ったところ、それがグレイウルフの群れだと確認できました。五、六匹はいるようです。そして……彼らはこちらの方向に向かっていました」
村人たちの間に不安の声が広がった。
「グレイウルフが人里に下りてくるなんて、何十年ぶりだろう」
「子供たちが危ない」
「作物も家畜も守らないと」
ガルド村長が再び皆を静かにさせた。
「恐れることはありません。私たちは以前にも魔獣の襲撃を乗り越えてきました。今回も準備をすれば大丈夫です」
村長はまず、村の周囲の見回りを強化すること、夜間の移動を控えること、そして子供たちを夕方以降は家の中に留めることを提案した。それから、防衛策について議論が始まった。
ライルは議論を聞きながら、少し考え込んでいた。《天恵の地》のスキルはもともと防衛能力はないが、何か応用できることはないだろうか。
そんな考えに耽っていると、突然ガルド村長に名前を呼ばれた。
「ライル君、王都からの知識を何か提供できることはないかな?」
すべての視線が一斉にライルに注がれた。彼は少し緊張しながらも立ち上がった。
「はい、魔導士養成院で魔獣について学んだことがあります」ライルは真剣に答えた。「グレイウルフは群れで行動し、主に夜間に活動します。彼らは通常の動物よりも賢く、単純な罠には引っかかりません」
村人たちは静かにライルの言葉に耳を傾けていた。
「でも、彼らには二つの弱点があります。一つは、強い光に弱いこと。もう一つは、特定のハーブの香りを嫌うことです。メレンラビアというハーブを知っていますか?」
メリアが手を上げた。「知ってるわ! 谷間に少し生えてるわね。薬用にも使うわ」
「そのハーブで作った煙を村の周囲に焚くと、グレイウルフは近づきにくくなります」ライルは説明した。「それから、村の入り口には深い溝を掘り、その中に松明を立てておくと効果的です」
ガルド村長は感心した様子で頷いた。「素晴らしい提案だ、ライル君。皆さん、今日から準備を始めましょう。若い男性たちは溝掘りを、女性たちはハーブの収集を手伝ってください」
会議が終わり、村人たちが散会し始めたとき、ガルド村長がライルの肩に手を置いた。
「良い知識を共有してくれてありがとう。実は他にも相談したいことがある。今夜、私の家に来てくれないか?」
「はい、もちろんです」ライルは頷いた。
家に戻ると、フィリスとコルが待ち構えていた。
「どうだった?」フィリスは身を乗り出して尋ねた。
「村全体が緊張してる」ライルは状況を説明した。「グレイウルフがこの村を襲う可能性があるんだ」
コルが不安げな鳴き声を上げた。窓辺に駆け寄り、外を見つめるその姿には何か違和感があった。
「コル、何か感じてるの?」ライルが尋ねると、コルはゆっくりと頷いた。
「コルは神獣だから、普通の動物より感覚が鋭いのね」フィリスは思案げに言った。「もしかしたら、魔獣の気配を感じ取っているのかもしれないわ」
夕方、ライルはガルド村長の家を訪れた。村長の家は村の中心部にあり、二階建ての頑丈な造りをしている。中に招き入れられると、そこには村の年長者数人も集まっていた。
「来てくれてありがとう、ライル君」ガルド村長は彼を丁寧に椅子に案内した。「実は、魔獣対策についてさらに詳しく聞きたいんだ」
ライルは知っている限りの情報を共有した。グレイウルフの行動パターン、弱点、そして効果的な防衛策について。年長者たちは真剣に耳を傾け、時折質問を投げかけた。
話が一段落したとき、ガルドが意外な質問をした。
「ところで、ライル君。最近村で目撃された銀色の生き物について、何か知っていることはないかな?」
ライルは一瞬息を呑んだ。コルのことを聞かれているのは明らかだ。
「銀色の生き物、ですか?」
「ああ」ガルドはゆっくりと頷いた。「昔からこの村には『銀の守り手』という伝説があってね。魔獣が近づくと現れ、村を守ってくれるという生き物だ。最近、何人かの村人が見たと言っている」
ライルは慎重に言葉を選んだ。「僕も畑で何度か見かけました。でも近づくと逃げてしまって……」
「そうか」ガルドは意味深げに微笑んだ。「その生き物が村を守ってくれるという伝説は本当かもしれないね。君の畑によく現れるなら、ぜひ村のためにその子の力を借りたいものだ」
ライルが家に戻ったのは、夜も更けた頃だった。フィリスとコルは起きて待っていた。
「皆、協力的だったよ」ライルは疲れた表情で報告した。「明日から村の防衛策を始めるんだ。溝を掘ったり、ハーブを集めたり……」
「私も手伝えることがあれば言ってね」フィリスは真剣な表情で言った。「私の力はまだ完全ではないけど、地脈を少し感じることはできるわ」
コルは窓辺から離れようとせず、外を見つめ続けていた。その姿に、ライルは近づいて肩に手を置いた。
「コル、何か感じてるんだね」
コルはゆっくりと振り返り、金色の瞳でライルをじっと見た。その瞳には不安と、同時に決意のようなものが浮かんでいた。
「一緒に村を守ろう」ライルは優しく言った。「君は『銀の守り手』なんだから」
その夜、三人は遅くまで話し合った。村の防衛策、フィリスの力で応用できそうなこと、そしてコルの能力をどう活かすか。窓の外では、満月が村を照らし、静かな夜が流れていた。だが、その静けさの中にも、何か迫り来る緊張感が漂っていた。