第18話「行商人バスランとの出会い」
市の日を迎えたウィロウ村は、いつもより活気に満ちていた。月に二度だけ、近隣の村々から商人たちが集まり、村の広場で市が開かれる特別な日だ。
「フィリス、コル、今日は人が多いから、家でおとなしくしていてね」ライルは二人に言い聞かせた。「特にコル、子供たちに会いたいだろうけど、ダメだからね」
コルは不満そうな鳴き声を上げたが、結局は従うしぐさを見せた。フィリスも微笑んで頷き、「行ってらっしゃい。ちゃんと楽しんでくるのよ」と見送ってくれた。
村の広場に向かうと、既に多くの屋台が並び、人々で賑わっていた。見知らぬ顔も多く、近隣の村から買い物客も訪れているようだ。新鮮な野菜、手作りの布製品、鍛冶屋の道具、珍しい調味料……様々な品物が所狭しと並んでいる。
「ライルさん!」
メリアが手を振っていた。彼女は薬草の屋台の前にいた。
「メリアさん、おはようございます」
「市の日は楽しいでしょう?」メリアは笑顔で言った。「特に今日は、有名な行商人のバスランが来ているのよ」
「バスランさん?」
「遠い国々を旅する行商人よ。珍しい種や道具、時には異国の話も持ってくるの」メリアは目を輝かせた。「私も彼から珍しい薬草の種をもらったことがあるわ」
メリアに教えられた方向に進むと、広場の端に一際目立つ色鮮やかな屋台があった。赤と金の布で覆われたその屋台の前には、既に人だかりができていた。
ライルが人々の間から屋台を覗き込むと、そこには個性的な風貌の男性がいた。褐色の肌に白髪交じりの髭、そして身に着けているのは王都でも見たことがないような刺繍の施された衣装。
「さあさあ、珍しい種や道具はいかがかな?」男性は陽気な声で呼びかけていた。「この種は砂漠の国から持ってきたもの。乾燥に強く、甘い実をつける不思議な植物だよ!」
村人たちはその話に聞き入り、次々と商品を手に取っていた。
ライルが興味深そうに見ていると、男性と目が合った。
「おや、新しい顔だね」男性は屋台の上から身を乗り出した。「君は?」
「ライルです。以前王都にいましたが、最近この村に来ました」
「王都か!」男性は目を輝かせた。「私もたまに行くよ。バスランと言う。世界中を旅する行商人さ」
バスランは手を差し伸べ、ライルと握手を交わした。その手には長年の旅による硬い皮と、様々な経験を物語る傷があった。
「何か特別なものをお探しかな?」バスランは陽気に尋ねた。
「実は、畑を始めたばかりなんです。何か良い種や道具があれば……」
「畑師か!」バスランは声を上げた。「それなら、こちらはどうだ」
彼は屋台の下から小さな布袋を取り出した。中には見たこともない形と色の種が入っている。
「これは遠い東の国から持ってきた野菜の種だ。寒さにも暑さにも強く、味は絶品。『月光野菜』と呼ばれているよ」
ライルは興味深そうに種を手に取った。《天恵の地》のスキルがあれば、この珍しい種も育てられるかもしれない。
「いくらですか?」
「通常なら銀貨三枚だが……」バスランはライルをじっと見つめた。「君は目が澄んでいる。良い畑師になりそうだ。銀貨一枚でいいよ」
思いがけない値引きに、ライルは驚いた。「ありがとうございます」
種を購入した後も、バスランはライルに様々な国の話を聞かせてくれた。砂漠の国での水の貴重さ、東の国の階段状の田んぼ、南の島々で育つ甘い果物の話……。その話は、王都の学院でも聞いたことのないような、生きた知識に満ちていた。
「バスランさんは色々な場所を見てきたんですね」ライルは感心した。
「旅は最高の学びだよ」バスランは微笑んだ。「さて、他に何か欲しいものはあるかい?」
ライルは屋台の品物を見渡した。様々な種、珍しい調味料、手作りの農具……どれも魅力的だったが、特に目を引いたのは一組の木製の小さな彫刻だった。
「これは?」
「ああ、それは東の国の護り神の像だよ」バスランは説明した。「土地と作物を守る神様と、その使いとされる獣の像さ」
ライルは息を呑んだ。その像はどこかフィリスとコルを思わせる姿をしていた。女神の像は優雅で神々しく、獣の像は小さいながらも力強さを感じさせる。
「これください」
ライルはためらうことなく言った。フィリスとコルへの贈り物に完璧だと思った。
「良い目を持っているね」バスランは満足げに頷いた。「これも特別価格で。銀貨二枚でいいよ」
取引を終え、ライルがバスランの屋台を離れようとしたとき、突然の騒ぎが起こった。
「あ! 銀色の狐だ!」誰かが叫んだ。
ライルは慌てて声のする方を見た。広場の端、森に近い場所で、コルが姿を現していたのだ。好奇心に負けて家を抜け出してきたらしい。周囲の人々が驚きの声を上げ、何人かが近づこうとしている。
「まずい……」
ライルは人々の間をすり抜け、コルの方へと急いだ。コルも人々に気づき、慌てて逃げようとしたが、興味を持った子供たちに囲まれてしまった。
「コル!」ライルは小声で呼びかけた。
コルはライルを見つけると、安堵の表情を見せたが、周囲の視線に怯えている様子だった。
「みんな、あまり近づかないで」ライルは集まった人々に言った。「驚かせると逃げてしまうよ」
「これが噂の銀の守り手か」バスランが人々の後ろから声をかけた。「美しい生き物だ……」
バスランの落ち着いた声に、人々も少し静かになった。ライルはその隙にコルに近づき、そっと抱き上げた。コルはライルの胸に身を寄せ、震えている。
「ごめんね、怖かったね」ライルは小声でコルに語りかけた。
「ライルさん、その子と知り合いなのか?」村の誰かが尋ねた。
「ええ、時々畑に来てくれるんです」ライルは答えた。「臆病なので、家に連れて帰りますね」
人々はまだ興味津々の様子だったが、コルが怯えているのを見て、道を空けてくれた。ライルはコルを抱えたまま、急いで家に向かった。
***
「もう、心配したわ」
家に戻ると、フィリスが心配そうな顔で迎えてくれた。
「コルが突然いなくなって……」
「大丈夫、無事だったよ」ライルはコルを床に降ろした。「でも、市で大騒ぎになっちゃった」
コルは申し訳なさそうに鳴き、床に頭を伏せた。
「怒ってないよ」ライルは優しく言った。「でも、あんなに人が多いところは危ないからね」
フィリスはコルの頭を撫でながら、「外の世界が気になるのはわかるけど、もうちょっと隠れるの上手にならなきゃね」と諭した。
緊張から解放されたせいか、三人はクスクスと笑い始めた。コルの隠れる技術の話題で盛り上がり、フィリスが「よーし、今度から隠れんぼの特訓よ!」と提案すると、コルは元気を取り戻して尻尾を振った。
「そうだ、プレゼントがあるよ」
ライルは市で買った小さな像を取り出した。
「わぁ……すごい。これ、なんだか私たちっぽいかも」とフィリスは息を呑んだ。
「東の国の護り神の像だって。土地と作物を守る神様と、その使いなんだって」
フィリスは女神の像を、コルは獣の像をじっと見つめた。どこか懐かしさを感じているようだった。
「ありがと、ライル。……すっごく嬉しい。大事にするね」とフィリスは柔らかく微笑んだ。
コルも嬉しそうに鳴き、像の周りをぐるぐると回った。
その夜、三人は市の様子や、バスランから聞いた遠い国の話で盛り上がった。ライルは「月光野菜」の種を見せ、畑に植える計画を話した。フィリスは東の国の階段状の田んぼに興味を示し、コルは南の島の話を聞くとワクワクした様子で鳴いた。
「世界は広いんだね」ライルは感慨深く言った。「王都にいた時は、外の世界のことなんて考えもしなかった」
「いつかきっと、私たちも旅に出られるわね。でも今は、ここでちゃんと根を張らないとね」とフィリスは少し偉そうに、でも優しさを込めて言った。
窓の外では、満月が村を優しく照らしていた。市の賑わいも落ち着き、静かな夜の中で、三人はそれぞれの思いを胸に抱いていた。
バスランがもたらした世界の話は、彼らの小さな日常に新しい夢と可能性の種を蒔いたのかもしれない。