第15話「初めての鍋会」
鍋会の日、ライルの家の前は朝から準備で忙しかった。村人たちがやってくる前に、庭をきれいに整え、長テーブルを設置し、大きな鍋を用意しなければならない。
「フィリス、その机はもう少し左に」
ライルの指示に従って、フィリスは力強く机を動かした。神としての彼女の力は、日常の些細な作業でも役立っていた。
「これでいい感じかしら?」フィリスは少し頬を膨らませながら、首を傾げて尋ねた。
「うん、完璧だよ」
庭の片隅では、メリアがハーブを小さな花瓶に活けていた。テーブルの装飾用だ。コルは興奮した様子で庭を駆け回り、時々近づいてきては準備の様子を確認していた。
「コル、お客さんが来る前には森に隠れておくんだよ。トムとマリィが合図したら出ておいでね」
コルは理解したように、一度だけ鳴いて返事をした。
ライルは畑から最後の野菜を収穫し、籠いっぱいに抱えて戻ってきた。レタス、ニンジン、タマネギ、カブ、そして様々なハーブ。どれも《天恵の地》の効果で、色鮮やかで大きく育っていた。
「素晴らしい収穫ね」メリアが感嘆の声を上げた。「これだけあれば、村人全員が驚くわ」
フィリスは野菜を見て、満足げに微笑んだ。
「ライルの力が詰まってる野菜だもの。きっと元気になるに決まってるわ」
準備が進む中、ライルは少し緊張し始めていた。村人たちとこんなに親しく交流するのは初めてだ。追放されてきた身として、本当に受け入れてもらえるのだろうか。
フィリスがライルの表情に気づき、そっと近づいた。
「心配いらないわよ」彼女は優しく微笑みながら尋ねた。
「少しね」ライルは正直に答えた。「王都では『無能』と呼ばれていたから……」
「も〜……気にすることないでしょ」フィリスは真剣な表情になり、小さな拳でライルの胸を軽く叩いた。「今のライルは《天恵の地》の持ち主で、この村にとって大切な存在なんだから。それに……私にとっても、大事な契約者なんだから……」
その言葉に、ライルは少し勇気づけられた。
昼過ぎ、メリアは自分の家に戻り、着替えと追加の食材を取りに行った。ライルとフィリスは最後の準備として、大きな鍋に水を張り、火を起こす準備をした。
「フィリス、今日の変装はどうする?」
「心配するなかれ」フィリスは微笑んだ。「完璧な姿で村人たちに会いましょう」
彼女は軽く手を翳すと、純白の神官衣装が、村の女性がよく着る質素な服に変わった。翡翠色の長い髪も、肩までの栗色に変化した。
「どうかしら? これでバッチリでしょ?」
ライルは頷いたが、少し気になることがあった。
「フィリス、前回村長に会った時と髪の色が違うよ」
「え?」フィリスは驚いて、自分の髪を見た。「以前は何色だったの?」
「麦わら色だったよ」
「くっ……」フィリスは苦笑した。「変装って、意外と細かいところが難しいのよ……」
慌てて髪の色を修正するフィリスの姿に、ライルは思わず笑ってしまった。神様も完璧ではないのだ。
「大丈夫、『髪を染めた』って言えばいいさ」
その後、フィリスは変装の練習をして、「親戚のフィリス」としての立ち振る舞いを確認した。人間の女性として自然に見える動きや表情を意識している。
「私は遠い街から来た、ライルの従姉妹。故郷のことや、村の印象などを聞かれたら、このように答えるわ……」
フィリスが一生懸命に練習する姿を見て、ライルは微笑まずにいられなかった。
やがてメリアが戻ってきた。彼女は村から最新の情報をもたらした。
「村のみんな、とても楽しみにしているわ。特にガルド村長は『新しい村人を歓迎する良い機会だ』と言っていたわ」
その言葉に、ライルの心は少し軽くなった。
午後4時頃、最初の村人たちが姿を見せ始めた。ガルド村長が先頭に立ち、数人の年配者と共にゆっくりと近づいてくる。
「よく来てくれました、村長さん」ライルは深々と頭を下げた。
「いやいや、こちらこそ招いてくれてありがとう」ガルドは温かく微笑んだ。「村に来てからずっと畑を耕している姿を見ていたよ。その成果を見せてくれるんだろう?」
「はい、ささやかですが……」
続いて、村の他の人々も集まってきた。鍛冶屋のドリアン、パン屋のマーサ、羊飼いのクリフ、そして子どもたちを含む多くの家族。誰もが何かしらの食材や皿を持参していた。
「みなさん、今日は来てくれてありがとうございます」ライルは緊張しながらも、はっきりとした声で言った。「僕はライル・アッシュフォード。この村に来てまだ日が浅いですが、皆さんとより親しくなれたらと思い、この鍋会を開くことにしました」
村人たちは温かい拍手で応えた。
「それから、こちらは親戚のフィリスです。しばらくこの村に滞在しています」
フィリスは優雅にお辞儀をした。
「みなさんに会えて嬉しいわ」
村人たちはフィリスに好奇心いっぱいの視線を向け、特に女性たちは彼女を取り囲んで質問を始めた。フィリスは少し戸惑いながらも、練習通りに人間らしく振る舞っていた。
メリアは手際よく食材の準備を進め、ライルは大きな鍋に火を入れた。
「ライルさん、これが噂の野菜かい?」ドリアンが野菜籠を覗き込んで言った。「見事だな。どうやって育てたんだ?」
「えっと、土壌が良かったのと、毎日丁寧に世話をしたからかな」
ライルは本当の理由——《天恵の地》のスキルと地の女神の力——を言うわけにはいかなかった。
鍋に出汁が沸き始め、ライルが切った野菜を入れていくと、香りが辺りに広がった。村人たちは期待に満ちた表情で見守っている。
「いい匂いだね!」トムが嬉しそうに言った。「早く食べたいな」
マリィはライルに近づき、小さな声で尋ねた。
「コルは……?」
「もうすぐ来るよ」ライルはウインクした。「合図を送ってごらん」
トムとマリィは互いに頷き、森の方向に向かって小さな笛を吹いた。それは子どもたちの間で使われる合図だった。
しばらくすると、村人の一人が指さした。
「あれは! 銀の守り手!」
森の縁に、コルの銀色の姿が見えた。太陽の光を受けて毛並みが輝き、幻想的な雰囲気を纏っている。村人たちは驚きと畏敬の念で見つめた。
「なんて美しい……」
「伝説の生き物が見られるなんて……」
子どもたちは喜びのあまり飛び跳ねていた。コルは少しだけ姿を見せ、そして静かに森の中へと消えていった。
「これは吉兆だ」ガルド村長が厳かに言った。「銀の守り手が現れる村には、豊かな実りが訪れると言われている」
村人たちは興奮して話し合い、祝福された雰囲気が広がった。ライルとフィリス、メリアは視線を交わし、小さく微笑んだ。
やがて鍋が煮え、最初の取り分けが始まった。ライルの育てた野菜の味に、村人たちから驚きの声が上がる。
「なんて甘いニンジンだ!」
「このレタス、普通のものとは全然違うわ!」
「これはどんな調味料を使ったの?」
「いいえ、特別な調味料は使っていません」ライルは誠実に答えた。「野菜そのものの味です」
食事が進むにつれ、会話も弾んだ。村の年配者たちは昔の話を聞かせ、子どもたちは銀の守り手の伝説についてライルに質問した。フィリスは村の女性たちと親しく話し、時折笑い声が上がった。
ガルド村長がライルの側に座り、静かに話しかけた。
「君が来てから、村に変化が生まれ始めているよ」
「変化、ですか?」
「ああ」ガルドは頷いた。「畑がより豊かになり、人々の表情も明るくなってきている。そして今日、銀の守り手が姿を現した。これは単なる偶然ではないと思う」
ライルは言葉を選びながら答えた。
「僕はただ、この村でのんびり暮らしたいだけなんです。皆さんのお役に立てるなら嬉しいです」
「謙虚だね」ガルドは微笑んだ。「君の存在は村にとって良い風をもたらしている。これからもよろしく頼むよ」
村長が立ち上がり、杯を掲げた。
「皆さん、今日集まってくれてありがとう。新しい村人、ライル・アッシュフォードを歓迎し、彼の畑の恵みに感謝しましょう。そして、彼の親戚、フィリスさんにも歓迎の意を表します」
村人たちは杯を掲げて応えた。
「ライルさん、ありがとう!」
「これからもよろしく!」
温かい言葉に包まれ、ライルは胸がいっぱいになった。追放された場所が、今は彼を受け入れてくれる新しい家になろうとしている。
フィリスが側に来て、小さく囁いた。
「あなたって、本当にいい契約者だわ」
メリアも嬉しそうな表情で近づいてきた。
「大成功ね! 皆さん、ライルさんのことを本当に気に入ってくれたわ」
夕暮れが近づき、村人たちは少しずつ帰り始めた。子どもたちはもう一度コルが見られることを期待して森の方をじっと見ていたが、今夜はもう現れそうにない。
「また会えるよね? 銀の守り手」トムが小さく呟いた。
最後に残ったガルド村長が言った。
「また近いうちに村の集会に来てくれないか? 君の畑のことや、これからの村の計画について話し合いたいんだ」
「はい、喜んで」ライルは応えた。
すべての村人が帰った後、ライル、フィリス、メリアは疲れた様子で椅子に座った。コルも森から戻り、彼らの足元でくつろいでいた。
「やり遂げたね」ライルは安堵の表情で言った。
「ええ、良い集まりだったわね」フィリスは満足そうに頷いた。「人間たちと交流するのは、思ったより楽しいものね」
「皆さん、本当に喜んでくれたわ」メリアは微笑んだ。「特にライルさんの野菜は評判最高だったわよ」
ライルは星が瞬き始めた夜空を見上げた。
「この村に来たとき、こんな風に迎えられるなんて想像もしなかったよ」
「これからもっと良くなるわよ」フィリスは静かに言った。「私とコルと、あなたのスキルで、この村はもっともっと良くなるんだから」
コルも嬉しそうに鳴き、三人の足元でくるくると回った。
片付けを終え、ライルは最後に畑を見回った。月明かりに照らされた野菜たちが、静かに育ち続けている。《天恵の地》の効果で、地面にはかすかな光の筋が走っているように見えた。
ライルは深呼吸した。王都での屈辱、追放の苦しみ、そしてこの村での出会い——すべてが今のこの瞬間につながっている。初めて村全体に受け入れられたという実感が、彼の心を温かく包んだ。
家に戻ると、フィリスとコルが暖かな灯りの中で彼を待っていた。そして、テーブルの上には村人たちからのお礼の品々が並んでいた。手作りのパン、新鮮な卵、手編みの小物……それぞれに込められた村人たちの気持ちが伝わってくる。
「これからが楽しみだな」
ライルのつぶやきに、フィリスとコルは静かに頷いた。三人の新しい物語は、この村で確かに根を下ろし始めていた。