第11話「神様と神獣との始まりの一日」

 朝の畑で女神フィリスと出会ってから、ライルの頭の中は混乱していた。契約を交わし、自分のスキル《天恵の地》の存在を知った喜びと驚きが入り混じる中、現実的な問題が浮上してきた。

「えっと……フィリス、これからどうしよう」

 ライルは困惑した表情で尋ねた。フィリスは首を傾げ、深緑の瞳でライルを見つめる。

「どうするとは?」

「いや、その……フィリスをどこに……」

「え? もちろんあんたの家に住むんじゃないの?」フィリスは首を傾げ、キョトンとした表情で聞き返した。

 フィリスの言葉に、ライルは思わず口をぽかんと開けた。確かに、長い間封印されていた神様を畑に立たせておくわけにはいかない。かといって、村人たちに「畑から神様が出てきました」と言っても信じてもらえるだろうか。

「わかったよ。とりあえず家に戻ろう」

 コルが嬉しそうに鳴き、二人の間を駆け回る。畑を出るとき、ライルは周囲を慎重に見回した。幸い、朝早かったせいか人影はない。

「フィリス、少し……その……目立つから」

 純白の神官のような衣装に、翡翠色の長い髪。どう見ても普通の村人には見えない。

「隠れる必要があるの?」

「いえ、その……村の人たちに神様が現れたと知られると、大騒ぎになると思うんだ」

 フィリスは少し考え込み、頬を膨らませてから頷いた。

「ふーん、秘密ってやつね。ま、任せて!」

 彼女がくるりと回転すると、衣装が微かに光を放ち、一般的な村の女性が着るような質素な服に変わった。髪の色も少し暗めの緑色になり、長さも肩までに短くなった。

「どう? これならバレないわよね?」フィリスは少し照れくさそうに、両手を広げてクルリと一回転してみせた。

「え……! すごいね。魔法なの?」

「ううん、私の力の一部よ」フィリスは少し得意げに胸を張った。「正直、今はまだ完全な力を取り戻してないから、これくらいしかできないんだけどね」

 その姿なら、村から来た親戚か何かと言っても違和感はない。ライルはほっと息をついた。

「じゃあ、行こうか」

 「新しいお家、楽しみだわ!」フィリスが明るく言った。

 ***

 家に着くと、ライルは急いで部屋の中を片付け始めた。もともと小さく質素な家だが、一人暮らしの男の部屋だけに散らかっている。

「ごめんね、こんな狭いところで……」

 フィリスは静かに部屋を見回し、「気にしない気にしない」と微笑んだ。その仕草にはどこか品があり、小さな家の中でも不思議な存在感を放っていた。

「それにしても、人間の住まいってこんなものなのね」

「いや、もっと立派な家もあるよ。ここは村の端にある、半ば廃屋だったところだから……」

「なるほど。でも、悪くはないわ。地脈の流れを感じられるもの」

 フィリスが床を軽く踏むと、足元から微かな光が広がった。コルも嬉しそうに床の上を走り回り、時々くるくると回転して毛皮を光らせる。

「コル、落ち着きなさい」

 フィリスの声にコルは一瞬止まったが、すぐにまた走り始めた。その様子にライルは思わず笑みがこぼれた。

「ライル、笑っているわね」

「あ、ごめん。コルが嬉しそうで……」

「謝ることはないわ。コルも長い間、自由に走り回れなかったからね」

 フィリスの表情が少し和らいだ。

「それで、ライル。人間は何を食べるの?」

「え? フィリスは食べ物が必要なの?」

「もちろんよ。神といえども、この世界で形を持つ以上は栄養が必要なの。特に今は力が弱っているからね」

 ライルは慌てて食料庫を確認したが、そこにあるのは質素な保存食と少しの野菜だけだった。

「ごめん、あまり用意がなくて……」

「何度も謝るんじゃないの。そんなに好き嫌いとかしないわよ」

 フィリスが言うので、ライルは簡単な朝食の準備を始めた。まず鍋に水を入れ、昨日収穫した根菜類を切り、塩と保存してあった干し肉を加える。

「何を作っているの?」

 フィリスが興味深そうに覗き込む。その顔が近すぎて、ライルは少し慌てた。

「え、えっと……簡単なシチューだよ。王都にいた頃は料理係もやっていたから、基本的なものなら作れるんだ」

 鍋の中で具材が煮えはじめ、いい香りが部屋に広がった。フィリスが目を細め、深く息を吸い込む。

「いい匂いね」

 コルも香りに誘われて寄ってきて、前足で立ち上がり鍋を覗き込もうとした。

「コル、熱いから危ないよ」

 ライルがコルを優しく抱き上げると、ふわふわの毛皮が手に心地よく触れた。想像以上にやわらかく、温かい。

「コルの毛は特別なのよ」フィリスが言った。「触れる者の心を癒す力があるの。神獣の証だわね」

 確かに、コルを抱いているだけで心が落ち着く。疲れが抜けていくような、不思議な感覚だった。ライルはコルの頭を優しく撫で、耳の後ろを軽く掻いてやった。コルは気持ちよさそうに目を細め、小さな声で鳴いた。

「喜んでいるようね」フィリスが微笑んだ。「コルはあんたを気に入っているわ」

 シチューが出来上がり、ライルは三つの器に分けた。コルの分は少し冷まして床に置いた。

「いただきます」

 ライルが言うと、フィリスも真似て「いただきます」と言った。スプーンを使う様子が少しぎこちない。

「フィリス、スプーンの使い方は……」

「心配しないで。かつて人間と交わっていた頃の記憶はあるわ。ただ、久しぶりだからね」

 フィリスが一口食べると、その表情が一変した。

「こ、これは……!」

「まずい?」

「いや、素晴らしいわ! 人間の料理とはこれほど味わい深いものなのね」

 フィリスの目が輝き、驚くほど早い速度でシチューを平らげた。食べ終わると、器を持ち上げて「もう一杯くれない?」と言う。

「うん、もちろん」

 ライルは残りのシチューをフィリスの器に注いだ。コルも食べ終わり、満足そうに前足で顔を洗っている。その姿があまりにも可愛らしく、ライルは思わず微笑んだ。

「ライル、このシチューにはあんたのスキルが影響しているわね」

「え?」

「《天恵の地》の力が野菜に宿っているの。だから、特別な味わいになっているのよ」

 そう言われて見れば、確かに昨日までの野菜より色つやが良く、甘みも増しているように感じた。

「スキルってすごいんだね」

「これはまだ始まりに過ぎないわ。あんたのスキルは成長する。村の土地全体を豊かにできるに違いないわ!」

 フィリスの言葉に、ライルは自分のスキルの可能性を感じた。王都では「無能」と呼ばれたのに、ここでは特別な力を持つ存在になれるのかもしれない。

 ***

 朝食の後、ライルは家の掃除を始めた。フィリスのために寝る場所を作らなければならない。

「フィリスはベッドを使う? 神様だから、眠らないとか……」

「眠るわよ。神といえども休息は必要なの」

 ライルは自分のベッドを差し出そうとしたが、フィリスは首を振った。

「あんたのベッドはあんたが使うべきよ。私は……」

 フィリスが部屋の隅を指さした。そこには小さな出窓があり、朝の光が差し込んでいる。

「あそこで良いわ。日光が当たる場所なら、地脈の力も感じやすいもの」

「でも、硬いよ……」

「私のために簡単な寝台と布があれば十分よ」

 ライルは古い木箱を分解して簡単な台を作り、予備の毛布を敷いた。コルはその様子をじっと見ていたが、作業が終わるとすぐにその上に飛び乗り、丸くなった。

「コル、それはフィリスの寝台だよ」

 コルは知らん顔で、もふもふの尻尾で顔を隠した。フィリスは小さく笑った。

「構わないわ。コルも疲れているのね。一緒に眠れば良いわ」

 昼過ぎには、家の中の整理がある程度終わった。窓をすべて開けて空気を入れ替え、床も掃いた。ライルは久しぶりに汗を流した後、一息ついた。

「これでひとまず住めるようになったけど、フィリスにはまだ足りないものが多いよね」

「心配しないで。別に贅沢したいとか思ってないわよ」

「でも……着替えとか、必要じゃない?」

 フィリスは先ほどのように衣装を変化させることはできるが、それは幻影のようなもので、実際の服ではない。長く過ごすなら、本物の服や日用品が必要だろう。

「次の市場の日に買い物に行こう。それまでは、僕の服で何とか……」

「あんたは優しいわね、ライル」

 フィリスの言葉に、ライルは少し照れた。

「それより、昼食の準備をしようか」

「また料理を食べられるの?」フィリスの目が期待に輝いた。

「うん。今度は……」

 そのとき、コルが突然起き上がり、耳をピンと立てた。次の瞬間、外から声が聞こえてきた。

「ライルくん、いるかい?」

 村長のガルドだ。ライルは慌ててフィリスを見た。

「どうしよう……」

「あたしのことは心配しないで。普通の客人として振る舞うわ」

 フィリスが再び服装を村人風に変えると、ライルは深呼吸して玄関へ向かった。

「はい、村長さん。どうぞ」

 ドアを開けると、ガルドが立っていた。畑で採れた野菜を籠に入れて持っている。

「やあ、昨日約束した野菜を持ってきたよ。これからの季節に……」

 ガルドの言葉が途切れた。部屋の中のフィリスとコルに気づいたのだ。

「おや、客人かい?」

「あ、はい。えっと……親戚です。フィリスといいます。それと……その……ペットのコルです」

 ガルドはフィリスに会釈し、それからコルを見て目を見開いた。

「なんと美しい生き物だ。こんな銀色の……狼? 狐?」

「神獣よ」

 フィリスがさらりと言った。ライルはひやりとしたが、ガルドは笑った。

「神獣とはまた、大げさな。でも確かに珍しい毛並みだ」

 ガルドが近づくと、コルは警戒せずに尻尾を振った。

「おや、懐っこいじゃないか」

 ガルドがコルの頭を撫でると、コルは気持ちよさそうに目を細めた。

「こいつ、触れるとなんだか気持ちがいいな。毛が特別なのかい?」

「ええ、まあ……特別なんです」

 ライルは曖昧に答えた。ガルドはしばらくコルと戯れた後、野菜の籠を置いた。

「とにかく、これを持ってきたよ。それと、明日は村の集会があるから来てくれると嬉しい。フィリスさんもよかったら」

「ありがとうございます」

 ガルドが帰った後、ライルはほっと息をついた。

「うまく行ったようね」フィリスが言った。

「うん。でも、これからどうしよう……」

「一歩ずつ進めば良いわ。まずは今日一日を過ごしましょう」

 フィリスの言葉に、ライルは頷いた。

 ***

 夕暮れ時、ライルは畑に出て作物を確認した。朝からたった数時間なのに、野菜たちは目に見えて生き生きとしている。《天恵の地》の効果だろう。

 少し離れたところでは、フィリスがコルと遊んでいた。フィリスが手を動かすと、地面から小さな芽が出て花を咲かせる。コルはその花に飛びつき、また次の花に向かって駆けていく。その光景は、どこか非現実的で美しかった。

「ライル、見てごらん」

 フィリスが手を地面に置くと、一面の小さな白い花が咲き始めた。まるで星空のような花畑が、畑の一角に広がる。

「すごいな……」

「私の力はまだ弱いけど、これくらいはできるわ」

 コルが花畑の中を駆け回り、銀色の毛皮が白い花と美しいコントラストを描いている。

「本当に……美しいね」

 ライルの言葉に、フィリスは静かに微笑んだ。

「さあ、そろそろ夕食の時間ね」

 三人は家に戻り、ライルは昼間より少し手の込んだ夕食を作った。ガルドがくれた新鮮な野菜と、村の肉屋から買っておいた肉で作る煮込み料理。《天恵の地》の効果で野菜の味が際立ち、普段より美味しく仕上がった。

「こ、これは……さっきのよりもっと美味しいじゃないっ!」フィリスが感嘆の声を上げた。

「フィリスは人間の食事が気に入ったみたいだね」

「神が力を得るには二つの方法があるの。信仰を集めるか、大地の恵みを直接摂取するかね。今は後者の方が私には合っているわ」

 フィリスの言葉に、ライルは「なるほど」と頷いた。

 夕食後、三人は小さなテーブルを囲んで静かに過ごした。コルはライルの膝の上で丸くなり、その温かさと柔らかさがライルを包み込む。フィリスは窓の外を見つめ、夕暮れの空を眺めていた。

「明日からどうするか、少し考えておかなければね」

「うん。村の人たちにどう説明するか……」

「それはその時に考えれば良いわ。今は……この瞬間を大切にしましょう」

 フィリスの言葉に、ライルは頷いた。確かに、今この瞬間は特別だ。畑から神様と神獣が現れるなんて、誰が想像しただろう。それでも不思議と、この二人との時間が自然に感じられた。

「今日はありがとう、フィリス」

 ライルの言葉に、フィリスは少し驚いたような表情を見せた後、優しく微笑んだ。

「こちらこそ、ライル。あんたが私たちを受け入れてくれて感謝しているわ」

 夜が更けていく中、三人の新しい生活の一日目が静かに終わろうとしていた。窓からは満天の星が見え、コルの寝息が部屋に優しく響いていた。

 ライルは思った。この生活は、王都での日々とは全く違う。けれど、こんな日常も悪くない。むしろ——心地よい。

「おやすみ、フィリス」

「おやすみ、ライル」

 小さな家に、穏やかな夜の静けさが訪れた。