第10話「畑から目覚めた地の女神」
朝の柔らかな光が、畑に立ち込める霧を金色に染めていた。ライルは額の汗を拭いながら、コルが執着する地点を黙々と掘り続けていた。掘り始めてからすでに一時間が経過している。
「何があるんだろうね、ここに」
ライルはつぶやきながら、再び鍬を地面に突き刺した。コルは少し離れたところで、耳をピンと立てて見守っている。ときおり鼻をひくつかせ、何かを感じ取ろうとしているようだ。
「おや?」
鍬の先が何かに当たって、硬い金属音が響いた。ライルは慎重に周囲の土を取り除いていく。
「これは……」
地中から現れたのは、直径三十センチほどの円形の石板だった。表面には、ライルが見たこともない複雑な文様が刻まれている。中央には、花のような形の窪みがあった。
「こんなものが畑の下に埋まっているなんて……」
驚きを隠せないライルの横で、コルが小さく鳴いた。銀色の毛並みを輝かせながら、石板に近づいてくる。その目には、これまで見せたことのない真剣な眼差しが宿っていた。
「コル、何か知ってるの?」
問いかけに答えるように、コルは石板の中央に鼻先を近づけた。その瞬間、石板の文様が微かに光り始めた。
「え……?」
ライルが驚きの声を上げる間もなく、コルは後ろに下がり、ライルの方を見つめた。その目には「触れてみて」と言いたげな色が浮かんでいる。
「これに……触れろってこと?」
コルは小さく頷いたように見えた。ライルは躊躇いながらも、石板の中央にある花形の窪みに恐る恐る指先を伸ばした。
指が石板に触れた瞬間、文様が眩いばかりの光を放った。
「なっ……!」
予想外の光景に目を細めながらも、ライルは手を離すことができなかった。まるで石板に指先が吸い付いたかのように。
光が徐々に強まり、やがて畑全体を包み込むほどの輝きとなった。ライルの周囲の空間が歪み始め、地面から何かが浮かび上がってくる。
「これは一体……」
光の中心からゆっくりと現れたのは、一人の少女だった。
長い翡翠色の髪が風もないのに揺れ、白い肌は朝日を受けて真珠のように輝いている。纏っているのは、古い時代の神官のような純白の衣装。その姿は、ライルがかつて魔導書で見た「精霊」や「神仙」の挿絵そのものだった。
少女はゆっくりと目を開いた。翡翠色の瞳が、困惑したライルをじっと見つめる。
「……」
空気が凍りついたような静寂。
「……あんたが、私を目覚めさせたの?」
透き通るような、しかし不思議と威厳を感じさせる声。ライルは言葉を失い、ただ頷くことしかできなかった。
「……どれだけ時間が経ったのかな……」
少女は空を見上げ、そして足元に視線を落とした。石板の上に立つ彼女の周囲には、見たこともない花々が咲き誇っていた。畑の土が、まるで歓迎するかのように彼女の足元で生命力を放っている。
「私は……フィリス。地を司る神様よ」
そう名乗った彼女——フィリスは、コルの方に視線を向けた。コルは尻尾を大きく振りながら、彼女に近づいていく。
「コル、よくやったわね。本当に賢い子ね」
フィリスはコルの頭を優しく撫でた。コルは嬉しそうに鳴き、フィリスの手に顔をすりよせる。
「えっと……」
ライルが絞り出した言葉に、フィリスは再びライルに視線を向けた。
「そうね、説明が必要よね。戸惑っているでしょう?」
フィリスはクルリと一回転し、スカートを広げながらゆっくりと膝をついて、コルを腕に抱き上げた。その仕草はどこか少女のように愛らしかった。
「このコルはね、地の神獣っていって、私の力の一部を持つ存在なの」フィリスはコルの毛並みを優しく撫でながら続けた。「私がずっと眠っていた間も、コルだけは目覚めていて、私が復活するタイミングを待ちながら、ふさわしい人を探していたのよ」
「ふさわしい……人?」
「そうよ」フィリスはライルをじっと見つめ、少し照れながら言った。「あんたのことよ。コルが、ちゃんと選んだんだから」
「え? でも、僕は……」ライルは自分の手を見つめた。「僕はただの……追放された無能なのに」
「もう! そんな言葉、聞きたくないわ!」フィリスは頬を膨らませ、少し怒ったように言った。「神様である私が認めた人を、誰が無能だなんて言えるの? 今、あんたの中に眠る本当の力を感じなさい」
言われるまま、ライルは自分の内側に意識を向けた。すると、これまで感じたことのない何かが、体の中心で脈打っているのを感じた。暖かく、生命力に満ちた感覚。それはまるで、大地そのものと繋がっているかのようだった。
「これは……」
その瞬間、ライルの視界に不思議な文字が浮かび上がった。
《天恵の地》スキルが発現しました。
地脈との同調率:初期値15%
【対象範囲】:半径5m
効果:農地活性+10%、水分吸収効率+5%
「スキル……?」
驚きに目を見開くライル。王都でいくら努力しても芽生えなかったスキルが、今、畑の真ん中で突如として現れたのだ。
「《天恵の地》……なんて読むんだ?」
「てんけいのち」フィリスが答えた。「地と仲良くなって、恵みを引き出すスキルなの。大地の命を育てて、地脈の力をググッと活性化させる――かなりレアなやつよっ」
ライルの周りの土が、微かに光を帯びていく。足元から膝下まで、生命の息吹のようなものがゆっくりと昇っていく感覚。
「これが……僕のスキル?」
不思議なことに、それは自然な感覚だった。まるで生まれたときから持っていた能力が、今やっと目覚めたかのような。
「なぜ今まで気づかなかったんだろう……」
「封印された場所に触れなきゃ、目覚めることはなかったのよ」フィリスはやや得意げに言った。「あんたの力は、地脈とすっごく深くつながってるんだから。そして今、私と出会ったことでちゃんと目覚めたのよっ」
ライルはまだ信じられない様子で、自分の手のひらを見つめていた。普通の手。でも、地面に触れると確かに温かさを感じる。
「あんたが畑を耕して、種をまいて、実りを育てる……それが《天恵の地》をもっと強くしていくんだから」
フィリスの言葉に、ライルは自分の畑を見渡した。荒れていた土地が、今は確かに生命力を感じさせる。そしてこれからもっと豊かになっていく——その光景が鮮明に想像できた。
「僕が王都で認められなかったのは……」
「あんたの力が目覚めるべき場所じゃなかったってことよ」フィリスはゆっくりと立ち上がった。「地脈がしっかり流れてる場所でこそ、あんたの本当の力が発揮されるの」
コルがライルの足元に寄り添い、嬉しそうに尻尾を振る。まるで「おめでとう」と言っているようだった。
「でも……フィリス。君って、神様なんだよね? なんで封印されてたの? それに、どうして僕が……?」
フィリスは微かに笑みを浮かべた。それは慈愛に満ちた、だが同時に何か哀しみを秘めた表情だった。
「うーん……話すとちょっと長くなるのよ。しかもね、記憶がところどころぼやけててさ……」
彼女は空を見上げ、そして再びライルを見つめた。
「でもね、ひとつだけちゃんと覚えてて。あんたとコルが私を起こしたのは……偶然なんかじゃなくて、ちゃんと意味があることだったの」
ライルは深く息を吸い込んだ。朝の空気は、いつもより清々しく感じられた。頭の中は混乱していたが、不思議と心は穏やかだった。
「わかったよ、フィリス。君のために僕にできることがあるなら……」
言いかけたとき、突然、フィリスの姿がゆらめいた。一瞬、透き通るように。
「フィリス!?」
「だ、大丈夫だからっ」フィリスは自分の手を見つめた。「長いこと眠ってたから、ちょっと力がふらついてるだけなのっ」
「大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫……なんだけど、でもね……」フィリスは少し困ったように頬を膨らませた。「私の力を完全に取り戻すには、地脈と繋がれる人との絆が必要なの。神と人が結ぶ契約ってやつ」
彼女はライルをじっと見つめ、決意を込めた声で言った。
「だから、契約してあげてもいいわ……もちろん、あんたのためだけじゃないんだからねっ。私の力を戻すのにもちょうどいいんだからっ」
ライルは、目の前の神様を見つめた。数時間前までは、ただの畑だった場所に神様が立っている。そしてコルが尻尾を振りながら、契約を勧めるかのように見上げている。
この出会いが「必然」だというなら——。
「わかりました。僕で良ければ……契約しましょう」
その言葉を聞いたフィリスの顔に、安堵の表情が広がった。
「ありがと、ライル」
初めて自分の名を呼ぶフィリスの声に、ライルは不思議な親近感を覚えた。
朝日はさらに高く昇り、畑全体を金色に染め上げていた。ライルの目の前には、地の女神フィリスと銀色の神獣コル。そして自分の中に目覚めた《天恵の地》というスキル。
追放されてきたばかりの辺境の村で、ライルの新しい物語が始まろうとしていた。