第8話「銀色の導き手との遭遇」

 大雨の翌朝、すっきりと晴れ渡った空が広がっていた。雨に洗われた世界は一層鮮やかに見え、草木の緑は鮮烈に、朝露は宝石のように輝いていた。

 ライルは早朝から畑に出て、雨の影響を確認していた。幸い、彼が掘った排水用の溝が効果を発揮し、畑が水浸しになることはなかった。むしろ、雨は乾いた土地に潤いを与え、植えたばかりの種にとっては恵みの水となっていた。

「うん、これなら大丈夫そうだ」

 安心したライルは、雨で少し崩れた畝を直し始めた。手慣れた手つきで土を整え、必要な場所には新たに溝を掘り、水はけを良くしていく。

 作業をしながら、ふと昨日見つけた銀色の足跡のことを思い出した。雨で流されてしまっただろうか。気になって、畑の隅へと歩いていく。

「やっぱり消えてるな……」

 予想通り、柔らかい土は雨で平らになり、足跡の形はすっかり消えていた。ライルが少し残念そうに立ち尽くしていると、背後から小さな気配を感じた。

 振り返った瞬間、ライルは息をのんだ。

 そこには、銀色の毛並みを持つ子狼が立っていた。

 これまでも遠くから何度か見かけていた「銀の守り手」だが、こんなにも近くで対面するのは初めてだった。子狼は成長途中のようで、成獣の狼ほどの大きさはない。しかし、その姿はどこか気高く、普通の野生動物とは違う雰囲気があった。

 最も印象的なのはその瞳だった。金色に輝く瞳は、まるで太陽を閉じ込めたような深い光を湛えている。そしてその瞳は、ただの動物のものとは思えないほどの知性を感じさせた。

「こんにちは……」

 ライルは思わず声をかけていた。子狼はピクリと耳を動かし、ライルをじっと見つめ返した。逃げもせず、威嚇もしない。まるで反応を見ているかのようだった。

「キミが村の人たちが言う『銀の守り手』なんだね」

 子狼は首を少し傾げた。その仕草はあまりにも愛らしく、ライルは思わず微笑んだ。

「名前はあるのかな。私はライル。ライル・アッシュフォードだ」

 自己紹介をしながら、ライルはゆっくりとしゃがみこんだ。急な動きで驚かせないように気をつけながら、子狼と同じ目線になる。

 子狼はしばらくライルを観察した後、少しだけ距離を縮めた。その動きは警戒心と好奇心が入り混じったもので、時折立ち止まっては状況を確認するように辺りを見回していた。

「そう、ゆっくりでいいよ」

 ライルは急かさず、じっと待った。畑の柔らかな土の上で、朝日を浴びながら、人と狼が静かに向き合う時間が流れる。遠くからは村の朝の音が聞こえるが、この小さな畑の空間だけは、不思議な静寂に包まれていた。

 やがて子狼は、ライルから約2メートルの距離まで近づいた。その距離で立ち止まり、また金色の瞳でライルを見つめる。

「もう少し近づきたいけど、怖いかな?」

 ライルは優しく問いかけた。子狼は返事をするかのように、小さく鼻を鳴らした。そして突然、体を低くして、何かを探るように地面の匂いを嗅ぎ始めた。

「何を探してるの?」

 子狼はライルの言葉には反応せず、畑の中を移動しながら、特定の場所を丹念に嗅いでいく。その様子は単なる好奇心とは違い、何か目的があるようだった。

 ライルはそっと立ち上がり、子狼の後をついていった。子狼は畑の中央よりやや奥、まだ十分に耕されていない場所にたどり着くと、突然足を止めた。

 そして驚くべきことに、前足で地面を掘り始めたのだ。

「ちょっと、そこはまだ……」

 言いかけて、ライルは口をつぐんだ。子狼の行動には何か意味があるように思えた。必死に土を掘る姿は、単なるいたずらではなく、明確な目的を持っているように見えた。

 ライルは近づいて観察した。子狼は一点を集中的に掘り続けている。しかし小さな前足では、固い土を効率よく掘ることができず、どうやら苦戦しているようだった。

「何かあるのかい、そこに?」

 子狼は掘るのを一時中断し、ライルを見上げた。その瞳には何かを伝えようとする感情が垣間見えた。そして再び地面を見つめ、前足で土を掻き分けようとする。

「手伝おうか?」

 ライルは鍬を取りに行き、再び子狼の側に戻った。子狼はライルの手にした道具を見て、わずかに後ずさった。

「大丈夫、怖くないよ。キミが掘りたいところを教えてくれれば、僕が掘るよ」

 ライルは優しく語りかけ、子狼が掘っていた場所の近くで待った。子狼はしばらく迷うような素振りを見せたが、やがて再び同じ場所へと戻り、地面を指し示すように前足で軽く叩いた。

「ここでいいの?」

 子狼は確認するようにライルを見た。

 ライルはゆっくりと鍬を構え、子狼が示した場所を慎重に掘り始めた。子狼は少し離れたところから、身を乗り出すようにして見守っている。

 鍬が土に入り、一掬い、二掬いと掘り進めていく。何も特別なものは出てこない。しかし子狼は諦めず、ライルが作業を続けるのを見守っていた。

「ここまでで何かあるはずなんだけどな……」

 ライルが少し汗を拭いていると、子狼が再び近づき、掘られた穴の縁に前足をかけた。よく見ると、穴の一角に何か固いものが見えている。

「あれは……石?」

 ライルは手を伸ばし、土の中の固いものを触った。それは石というより、滑らかな手触りの物体だった。慎重に土を取り除いていくと、白っぽい色の、銀色に光る何かが姿を現した。

「これは……」

 完全に取り出す前に、ライルは子狼の様子を確認した。子狼は身を乗り出し、目を輝かせている。明らかにこれを探していたようだった。

「これが欲しかったの?」

 子狼は鼻を鳴らし、尻尾を小さく振った。その仕草は、明らかに肯定を示していた。

 ライルは掘り続け、ついにその物体の一部を取り出した。それは石のように見えて石ではなく、骨のように見えて骨でもない、奇妙な質感の物体だった。表面には不思議な模様が刻まれており、光に当てると微かに銀色に輝いた。

「これは一体……?」

 子狼は物体を見つめ、何か言いたげな表情をしていた。そして突然、ライルの方へと一歩近づいた。これまでで最も近い距離だ。

 ライルは息を呑んだ。子狼の姿がこんなに近くで見えるのは初めてだった。銀色の毛並みは朝日を浴びて神秘的に輝き、筋肉の一つ一つが滑らかに動くのが見えた。野生の美しさと、どこか神聖な雰囲気を併せ持つ存在だった。

 子狼はライルの手に鼻先を近づけ、物体の匂いを嗅いだ。そして満足したように小さく鳴いた。

「これが欲しかったんだね。でも、これは何なんだろう……」

 ライルが物体をよく観察していると、子狼は突然体を起こし、耳をピンと立てた。何かに気づいたような様子だ。

 遠くから人の声が聞こえてきた。村の方から誰かが近づいてくるようだった。

 子狼は一瞬ライルを見つめ、何かを伝えようとするかのような眼差しを送った。そして一度だけ頭を下げるようなしぐさをし、素早く身を翻して森の方へ駆け去っていった。

「待って!」

 ライルは思わず声をかけたが、子狼の姿はもう見えなくなっていた。残されたのは、彼の手の中の不思議な物体と、畑に付けられた新しい足跡だけだった。

「ライルさん、おはよう!」

 声の主は、薬草籠を持ったメリアだった。朝の採集に出かける途中だろう。

「あら、何を掘っているんですか?」

「ああ、メリアさん、おはようございます」ライルは慌てて立ち上がった。「いや、ちょっと……」

 どう説明すればいいか迷いながら、ライルは手の中の物体を見つめた。

「それは何ですか?」メリアが不思議そうに尋ねた。

「実はよく分からなくて……」

 ライルは正直に答えた。そして、銀色の子狼のことも含めて、今朝の出来事を簡単に説明した。

「銀の守り手が直接現れたんですか?」メリアは驚いた様子だった。「それはすごいことです。村では数年に一度見かける程度なのに……」

「本当に不思議な生き物でした。ただの狼ではないような……」

「ええ、伝説では神聖な存在とされています」メリアは畏敬の念を込めて言った。「その子があなたに見せたかったものなら、きっと重要な意味があるはずです」

 ライルは手の中の物体をもう一度よく見た。何か大切なものを預かったような気がした。

「大切にしておきます。また会えたら、お礼を言いたいですね」

「きっとまた現れますよ」メリアは微笑んだ。「あなたを選んだんですから」

 メリアが薬草採集に行った後も、ライルは不思議な物体を手に、畑に立ち尽くしていた。銀色の子狼――村人たちが「銀の守り手」と呼ぶ存在との初めての対面。そして、この謎の物体。

「なぜ僕に……?」

 風が畑を撫でていく。まるで返事をするかのように、銀色の足跡がついた土が、かすかに揺れた。

 ライルは物体を大切にポケットにしまい、再び畑仕事に戻った。しかし心の中では、あの金色の瞳と、銀色の毛並みを持つ不思議な子狼のことが離れなかった。

 次に会えたら、もっとよく観察したい。もっと近づきたい。そして、この物体の意味を知りたい――。

 そんな思いを胸に、ライルは鍬を握り締めた。