第7話「耕し続ける日々」

 朝もやが緩やかに立ち上る早朝、ライルは既に畑に立っていた。初夏の日差しはまだ優しく、作業をするには心地よい時間帯だ。手に馴染んできた鍬を握り、リズミカルに土を耕していく。

「だいぶ慣れてきたな」

 最初の頃と違い、今では鍬の使い方にも少しずつコツを掴んできた。力の入れ具合や、角度、リズム。それらが少しずつ体に染み込み、以前よりもずっと効率的に作業ができるようになっていた。

 手のひらには硬い豆ができ始め、腕の筋肉も少し盛り上がってきた。王都で魔導書ばかり開いていた頃とは違う、たくましさが身についてきている。

 ライルは一息つき、これまでの成果を見渡した。家の南側一帯は見違えるように変わり、整然とした畑の形になりつつあった。ガルド村長からもらった種も一部まき始め、芽が出るのを楽しみに待っている。

「おはようございます、ライルさん。今日も早いですね」

 振り返ると、老農夫のジョナスが立っていた。杖を突きながらも、畑仕事の現役を引退していない頑強な老人だ。

「ジョナスさん、おはようございます。朝は涼しいので、この時間に作業すると効率がいいんです」

「そうそう、その通り。太陽が高くなる前の作業が一番だ」ジョナスは満足げに頷いた。「見たところ、随分と上達してきたじゃないか」

「ありがとうございます。でも、まだまだですよ」

「謙遜することはない。初めて鍬を持った者がここまでできるようになるのは早い方だ」ジョナスはライルの畑を眺め、しばらく黙って観察していた。「ただ、あそこの部分はもう少し深く掘り返した方がいいな」

 ジョナスが指差した場所は、確かに他の部分より浅く耕されていた。

「この辺りは土が少し固くて……」

「ふむ、そういう時はな、こうするんだ」

 ジョナスは自分の杖を脇に置くと、ライルから鍬を借り、実演してみせた。年老いた体からは想像できないほどの力強さで、固い土地に鍬を入れていく。

「角度を少し変えて、体重をかけるんだ。そうすれば力が入りやすい」

 ライルはジョナスの動きを注意深く観察した。確かに彼のやり方だと、同じ力でもより効率的に土を掘り返せるようだ。

「なるほど……」

 鍬を返してもらったライルは、教わった通りの角度で土に挑んだ。

「そうそう、その調子だ!」

 ジョナスは満足げに頷き、さらにいくつかのアドバイスをくれた。土の見分け方、季節ごとの耕し方の違い、石ころの処理方法など、長年の経験から来る実践的な知恵の数々だ。

「ありがとうございます、ジョナスさん。本当に勉強になります」

「いいんだよ。村では皆、お互い様だからな」ジョナスは笑顔で言った。「それに、お前さんの畑が上手くいけば、村全体のためにもなる」

「村のため、ですか?」

「ああ。新しい農地が増えれば、それだけ村の収穫も増える。厳しい冬を乗り越えるには、一人でも多くの人の力が必要なんだ」

 ライルはその言葉に、この村での自分の役割を少し実感した。王都では「無能」と蔑まれていたが、ここでは彼の労働が村全体の助けになる。その事実が、作業への原動力となっていた。

「頑張ります。村の役に立てるように」

「その意気だ」ジョナスは満足そうに頷き、「それじゃあ、私はこれから自分の畑に行くとするよ」と言って去っていった。

 ライルは新たに教わった技術を試しながら、畑仕事を続けた。空が少しずつ明るくなり、村が一日の活動を始める音が遠くから聞こえてくる。

 ***

 午後、ライルが畑の別の区画を耕していると、軽やかな足音が近づいてきた。

「ライルさん、水をどうぞ」

 振り返ると、メリアが水筒を差し出していた。彼女の籠には新鮮な薬草が詰められており、朝の採集から帰る途中のようだ。

「ありがとう、メリア」

 ライルは感謝と共に水筒を受け取り、喉の渇きを潤した。清らかな水が体に染み渡っていく。

「少しずつ形になってきましたね」メリアは畑を見渡して言った。

「ええ、だいぶ耕せるようになってきました。でも、まだ半分くらいですね」

「十分すごいですよ。一人でここまで」メリアは微笑んだ。「そういえば、これから何を植えるんですか?」

「とりあえず、ガルド村長からもらったジャガイモとニンジンの種を植えました。あとは玉ねぎも少し」

「基本的な野菜から始めるのはいいことです。それなら私からのアドバイスがあります」メリアは籠から一束の草を取り出した。「これをジャガイモの周りに植えておくといいですよ。虫除けになります」

「へえ、そんな効果があるんですか」

「はい、昔からの知恵です。母から教わりました」

 メリアは畑の一角に、その草をどう植えればいいかを実演してみせた。彼女の手つきは優雅で、土との対話をするかのように丁寧だ。

「こうやって、少し間隔を空けて植えるんです。そうすると、害虫が寄り付きにくくなります」

「なるほど……」ライルは熱心にメモを取るように見つめていた。自然の知恵は魔導書には載っていない、生きた知識だ。

「あと、こっちの苗も差し上げます」メリアは籠から小さな植物の苗を取り出した。「これはミントです。料理にも使えますし、虫除けにもなりますよ」

「ありがとうございます。本当に助かります」

「いえいえ」メリアは微笑んだ。「それと、明日は村の共同食事会があるんですよ。来ませんか?」

「共同食事会?」

「そうです。月に一度、村人みんなで持ち寄った食事を分け合うんです。新顔のライルさんにもぜひ来てほしいな、と村長が言ってました」

「僕でよければ……」ライルは少し照れた。「でも、何か持っていった方がいいんですか?」

「そうですね……」メリアは考え込んだ。「まだ収穫はないでしょうから、何か他のもので。料理は得意ですか?」

「いえ、基本的なことしかできません」

「じゃあ、今日の夕方、私の家に来てください。一緒に何か作りましょう」

「本当ですか? 助かります」

 メリアはにっこりと笑って、「それじゃ、また後で」と言い残し、村の方へ歩いていった。

 ライルは新たな活力を得て、再び畑仕事に取り掛かった。村の共同食事会。それは彼にとって、村の一員として認められる第一歩のような気がした。

 ***

 夕方、約束通りメリアの家を訪れたライルは、彼女の指導の下、簡単なハーブパンを作った。小麦粉に村で採れる香草を混ぜ込み、独特の風味を持たせたパンだ。

「こんな感じでいいですか?」

「はい、生地の固さも丁度いいです。こねる時間が足りないと、パンが膨らみませんからね」

 メリアの台所は薬草の香りで満ちており、壁には様々な乾燥ハーブが吊るされていた。彼女は村の薬師としてだけでなく、料理の知識も豊富なようだ。

 焼きあがったパンは、素朴だが芳ばしい香りを放っていた。

「これなら明日の食事会に持っていけますね」

「ええ、きっと皆さん喜びますよ」メリアは微笑んだ。「さあ、まだ熱いうちに一つ食べてみましょう」

 メリアが切り分けたパンを一口頬張ると、外はかりっと、中はふわふわの食感と、ハーブの香りが口いっぱいに広がった。

「おいしい……」

「でしょう? シンプルな材料でも、ちょっとした工夫で美味しくなるんです」

 二人はお茶と共にパンを味わいながら、村での暮らしについて語り合った。メリアは小さい頃からこの村で育ち、母から薬草の知識を受け継いだこと、村人の健康を守ることが自分の使命だと感じていることなどを話してくれた。

「ライルさんはどうして王都から来たんですか?」彼女は率直に尋ねた。

 ライルは少し言葉を選びながら、「スキルがなかなか目覚めなくて……」と答えた。王都での屈辱的な経験をすべて語る気にはなれなかったが、メリアはそれ以上詮索せず、ただ優しく微笑んでくれた。

「この村では、そんなことは気にしなくていいんですよ。皆、それぞれの役割がありますから」

 その言葉に、ライルは心が温かくなるのを感じた。

 ***

 翌日、村の共同食事会は大盛況だった。広場に設置された長テーブルには、村人たちが持ち寄った様々な料理が並び、笑い声と会話が絶えない。

 ライルとメリアが作ったハーブパンも好評で、特に子どもたちが喜んで食べていた。トムとマリィも元気に走り回り、時々ライルの隣に座ってはパンをもう一つ欲しいとねだった。

 村長のガルドが乾杯の音頭を取り、「豊かな収穫と健やかな一年を」と祈りを捧げた。村人たちは皆、杯を掲げて応えた。

 ライルもその輪の中に自然と溶け込み、村での暮らしを本当に楽しみ始めていた。

 ***

 食事会の翌日、空は少し曇り始めていた。ライルは畑作業を急いで進めていたが、徐々に厚くなる雲を見て、「今日は雨になりそうだな」と呟いた。

 果たして午後になると、大粒の雨が降り始めた。ライルは急いで道具を片付け、家の中に避難した。

 窓から外を眺めていると、雨は次第に激しさを増し、本格的な大雨になってきた。屋根の修理をしておいて本当に良かったと、ライルは胸をなでおろした。東側は完全に直ったが、西側はまだ手つかずだったので、念のため桶を置いておいた。

「この雨、畑は大丈夫だろうか……」

 心配になったライルは、雨の中、屋外に出た。濡れながらも畑を確認すると、耕したばかりの柔らかい土地に雨水が染み込み、小さな水たまりができ始めていた。排水のために急いで小さな溝を掘り、水が滞らないようにした。

 作業を終え、再び家に戻ろうとした時、ふと畑の隅で何かが光るのに気がついた。雨に濡れた地面に、何か銀色のものが見えたのだ。

 近づいてみると、それは小さな足跡だった。雨でほとんど形が崩れかけていたが、確かに動物の足跡。そしてその周りに、銀色の毛が数本落ちていた。

「これは……あの子狼の?」

 ライルは慎重に足跡を観察した。銀色の子狼――村人たちが「銀の守り手」と呼ぶあの生き物が、雨が降る前にここに来ていたのだろう。どうやら彼の畑を見に来てくれていたようだ。

 足跡をさらによく見ると、他にも何か気になる点があった。通常の狼の足跡とは少し違う形をしているように見える。そして何より、銀色の毛……普通の動物にはない特徴だ。

「あの子、一体何者なんだろう……」

 ライルは銀色の毛を一本、大切に拾い上げた。雨に濡れても、その毛は不思議な輝きを失わなかった。

 家に戻ると、濡れた服を着替え、拾った銀色の毛を小さな木箱に入れた。窓の外では雨がさらに激しく降り続けている。

「次にあの子に会ったら、もう少し近づいてみようかな……」

 ライルはそう考えながら、窓辺に座り、雨音を聞いていた。畑は形になり始め、村での生活にも少しずつ慣れてきた。そして今、新たな謎――銀色の子狼の正体に、彼の好奇心は向けられていた。

 窓の外、雨の帳の向こうに、一瞬金色の瞳が光ったように見えたが、それが現実なのか、ただの思い込みなのか、ライルには分からなかった。