第4話「畑づくりの始まり」
朝日が昇る頃、ライルは古びた木造の家から出てきた。昨日の雨で湿った空気が肌に心地よく感じられる。小鳥のさえずりが辺りに響き、草の葉には朝露がきらきらと輝いていた。
「さて、今日こそは本格的に畑を作り始めるか」
ライルは軽く伸びをすると、家の脇に立てかけておいた鍬を手に取った。村長のガルドから譲り受けたその鍬は、長年使い込まれた跡が見える古道具だったが、刃の部分はしっかり手入れされており、まだまだ現役で使えるものだった。
「使い方は……こんな感じかな」
鍬を両手で持ち、畑にしようと思っている場所に立つ。家の南側、日当たりの良い緩やかな傾斜地だ。すでに雑草が生い茂っているが、この場所なら水はけも良さそうだし、朝から夕方まで太陽の光が当たる。
ライルは鍬を地面に突き立て、力を込めて土をすくい上げようとした。
「うっ……思ったより重い」
最初の一掘りは予想以上に手ごわかった。鍬の刃が土に少し刺さっただけで、ほとんど動かない。ライルは額に汗を浮かべながら、再び力を込めた。
「はぁっ!」
何とか土を掘り起こすことができたが、掘り返された土の量はごくわずかだった。
「これじゃあ一日中やっても、小さな畑しかできないな……」
王都の魔導士養成院にいた時は、こんな肉体労働とは無縁の生活だった。魔法の理論や魔力の扱い方については多少の知識があっても、実際の農作業についてはまったくの素人だ。
「でも、ここで暮らしていくなら、自分の手で食べ物を育てられるようにならないと」
ライルは深呼吸して決意を新たにし、再び鍬を振るった。少しずつではあるが、土が掘り返されていく。
***
昼過ぎになると、太陽が高く昇り、初夏の陽気が辺りを包み込んだ。ライルの額からは汗が滝のように流れ落ち、背中はすっかり汗で濡れていた。
「はぁ……はぁ……休憩、休憩」
ようやく小さな区画の草を取り除き、土を掘り返したところで、ライルは鍬を地面に突き立てて腰を下ろした。手のひらを見ると、すでに赤くなり始め、小さな水ぶくれができかけていた。
「魔導書を持つのと鍬を持つのとじゃ、使う筋肉がまったく違うんだな……」
そんな時、何かを感じて顔を上げると、畑から少し離れた木立の陰に、銀色の小さな影が見えた気がした。
「あれは……」
目を凝らして見つめるが、影はすでに消えていた。昨日も同じような気配を感じたような……。しかし考える暇もなく、近くから声がかかった。
「ライルさん、がんばってるねぇ」
振り返ると、村の薬師であるメリアが立っていた。茶色の髪を一つに結び、腰に薬草を入れた籠を下げている。
「ああ、メリアさん。こんにちは」
「初めての畑仕事、どう? 慣れない仕事は大変でしょ?」
メリアは心配そうにライルの手を見ると、眉をひそめた。
「もう水ぶくれができかけてるわ。このまま続けたら破れちゃうよ」
「大丈夫です、少しの痛みなら……」
「大丈夫じゃないわ。ちょっと待ってて」
メリアは籠から小さな布袋を取り出し、中から薬草の軟膏を出した。
「はい、これを塗って。薬草の軟膏よ。痛みも和らぐし、皮膚も丈夫になるわ」
「ありがとうございます」
ライルが軟膏を手のひらに塗ると、ひんやりとした感触とともに、じんわりと痛みが引いていくのを感じた。
「それと、これも持っていきなさい」
メリアは籠から木の実とパンを取り出した。
「お昼ご飯に。一人で頑張ってるのは偉いけど、体が資本なんだから、ちゃんと休憩もしないとね」
「メリアさん……ありがとうございます」
ライルは心からの笑顔で礼を言った。王都では冷たい視線を向けられることが多かったが、この村の人たちは違う。温かく、親切だ。
メリアはにっこりと笑うと、「頑張りすぎないでね」と言い残して、薬草を採りに行く道を歩いていった。
***
午後も作業は続いた。メリアからもらった軟膏のおかげで手のひらの痛みは和らいだが、それでも慣れない作業で体中の筋肉が悲鳴をあげていた。
「うぅっ……腕が上がらない」
何度か休憩を挟みながら、少しずつ畑の形になっていく土地を見て、ライルは小さな達成感を味わっていた。
ふと、また視線を感じて顔を上げると、今度ははっきりと銀色の小さな姿が見えた。小さな子狼のような生き物が、森の縁から彼を見つめている。金色の瞳がライルをじっと観察していた。
「やっぱり、昨日から見ていたのはあの子か……」
ライルがゆっくり立ち上がると、子狼は身構えたが、逃げはしなかった。
「大丈夫だよ、怖くないよ」
優しく声をかけながら一歩踏み出すと、子狼はピクリと耳を動かし、好奇心に満ちた表情で首をかしげた。しかし、それ以上近づこうとすると、さっと身をひるがえして森の中へ消えていった。
「不思議な子だな……普通の狼じゃないみたいだ」
夕方が近づき、西の空が赤く染まり始めた頃、ライルはようやく一日の作業を終えた。まだ全体の三分の一ほどしか耕せていないが、それでも見違えるように変わった土地を見て、ライルは満足感を覚えた。
「明日も頑張ろう」
鍬を肩に担ぎ、筋肉痛に耐えながら家に戻る途中、ライルは森の方をもう一度振り返った。もうあの銀色の子狼の姿はなかったが、何かが彼を見守っている感覚があった。
家に帰ると、小さな囲炉裏に火を起こし、メリアからもらった残りのパンと、自分で調達した山菜のスープを作った。熱いスープを口に運ぶと、素朴だが心のこもった味が体を温めた。
「明日はもう少し耕せるといいな……」
窓の外を見ると、満天の星が輝いていた。都会では見られない、透き通るような夜空。ライルは明日への期待を胸に、疲れた体を休めることにした。
***
翌朝、ライルが起きると、全身が悲鳴をあげていた。
「うっ……動けない……」
昨日の作業で使った筋肉が、今までに経験したことのないような痛みを訴えている。無理に起き上がろうとすると、背中から腰、腕から肩にかけて、ありとあらゆる場所が痛んだ。
「こんなんじゃ今日は作業できないかも……」
しかし、せっかく始めた畑づくり。諦めるわけにはいかない。
「少しでも動けるようになるまで、ストレッチでもするか……」
ライルはゆっくりと体を伸ばし、凝り固まった筋肉をほぐしていった。しばらくすると、少しは動けるようになってきた。
「よし、今日も頑張ろう」
痛みを押して家を出ると、昨日耕した畑の様子を確認した。朝露に濡れた土が、新鮮な匂いを放っている。
「これからここに野菜が育つと思うと、なんだか楽しみだな」
ライルは鍬を手に取り、再び作業を始めた。昨日の経験があるおかげで、少しはコツをつかんできた。鍬の入れ方や力の入れ具合など、少しずつ体が覚えてきている。
「昨日よりは効率よく進められそうだ」
そんな時、またあの銀色の子狼が現れた。今日は昨日より少し近くで、畑を掘るライルの様子をじっと見つめている。
「おはよう」
ライルが声をかけると、子狼はびくりとしたが、すぐに落ち着きを取り戻し、座り込んでライルの作業を観察し始めた。
「見ていくか? たいしたことはしてないけどね」
まるで理解したかのように、子狼は耳をピクリと動かし、そのまま動かなかった。
ライルは時々子狼に話しかけながら、作業を続けた。不思議なことに、子狼がいると心が落ち着き、筋肉痛の痛みも忘れるほどだった。
作業の合間に水を飲もうと立ち上がった時、子狼はすっと身を起こし、何かを感じ取ったような素振りを見せた。そして、ライルの方を一度見てから、再び森の中へと姿を消した。
「また来てくれるかな……」
ライルはそう呟きながら、畑づくりを続けた。手のひらの水ぶくれは相変わらずだが、メリアの軟膏のおかげで、昨日ほどの痛みはない。
***
数日が経ち、ライルの体も少しずつ畑仕事に慣れてきた。筋肉痛も和らぎ、手のひらにも少しずつ硬い皮ができ始めていた。
畑も徐々に形になってきて、家の南側一帯が耕された土地になっていた。村人たちも時々様子を見に来ては、アドバイスをくれたり、時には種や苗を分けてくれたりした。
「ライルさん、随分と様になってきたじゃないか」
ある日、村長のガルドが畑を見に来た。
「ガルドさん、こんにちは。まだまだですよ。村の方たちの畑と比べたら、本当に素人の畑です」
「いや、最初にしては上出来だ。こんなに早く耕せるとは思わなかったよ」
「ありがとうございます。でも、まだ種を植えるところまで行ってないんです」
「そういえば、この辺で銀色の子狼を見なかったかい?」
ガルドの質問に、ライルは少し驚いた。あの子狼のことだろうか。
「実は……見かけました。ここで作業をしていると、時々姿を見せるんです」
「そうか!」ガルドは目を輝かせた。「あの子は村の近くではなかなか姿を見せないんだ。特別に気に入られたようだね」
「そうなんですか?」
「ああ、村の言い伝えでは、あの銀色の狼は特別な存在とされているんだ。昔から時々姿を見せるけれど、めったに人に近づかない。見かけた人は幸運が訪れると言われているよ」
「へえ……」
ライルは森の方を見やった。今日はまだあの子狼の姿は見ていないが、どこかで見ているような気がした。
「さて、種のことだが、明日にでも私の家に来てくれないか。いくつか余っているものがあるんだ。最初の畑には丈夫で育てやすい野菜がいいだろう」
「本当ですか? ありがとうございます!」
ガルドが帰った後も、ライルは畑仕事を続けた。腕の筋肉はまだ痛むが、少しずつ強くなっているのを感じる。手のひらの水ぶくれもほとんど治り、代わりに薄い茶色の硬い皮が形成され始めていた。
「そろそろ種まきの準備もできるかな」
夕暮れが近づき、ライルが一日の作業を終えようとした時、またあの銀色の子狼が現れた。今日は特に近くまで来て、ライルから数メートルの距離で立ち止まった。
「今日もお疲れ様。見守ってくれてたんだね」
子狼は黄金色の瞳でライルをじっと見つめていた。まるで何かを伝えようとしているかのように。
「また明日も来るよ。そしたらもっと畑が大きくなってるはずだよ」
子狼はライルの言葉を理解したかのように、軽く頭を下げると、静かに森の中へと消えていった。
ライルは畑を見渡した。一週間前はただの草地だったこの場所が、今では立派な畑の形になりつつある。まだ種も植えていないが、それでもこれは彼の最初の一歩だった。
「少しずつだけど、前に進んでる」
夕日に照らされた畑を眺めながら、ライルは小さな充実感を胸に家路についた。明日からはいよいよ種まきの準備だ。自分の手で育てた作物がこの土地に実るのを想像すると、胸が躍るのを感じた。