第3話「ウィロウ村到着と不思議な導き」
夕暮れの柔らかな光が村を金色に染め上げていた。ライル・アッシュフォードは肩に荷物を担ぎ、ゆっくりとウィロウ村の中心へと歩を進めた。土の道は雨上がりのようにしっとりとしており、彼の足跡がはっきりと残る。
村の中は予想以上に静かだった。時折、家々の窓から漏れる明かりや、どこかで響く鍋を叩く音だけが、生活の営みを物語っていた。
「どこが役所なんだろう」
ライルが辺りを見回していると、一人の少年が小走りで彼の前を横切った。
「すみません」ライルは少年を呼び止めた。「村の役所はどこですか?」
少年は足を止めて、首を傾げた。「役所?」彼は少し考えて、「ああ、村長の家のことかい?」と言った。「あっちの一番大きい家だよ」
少年が指差した先には、確かに他の家より少し大きな二階建ての家が見えた。屋根には風見鶏のようなものが取り付けられ、玄関先には色とりどりの花が咲いていた。
「ありがとう」
少年はニコリと笑うと、「新しい人?」と尋ねた。
「ああ、今日来たばかりなんだ」
「へえ」少年は興味深そうに彼を見上げた。「じゃあまた!」そう言うと駆け去っていった。
ライルはその後ろ姿を見送りながら、少し緊張を和らげた。王都から四日間の長旅を経て、ようやく辺境の村に到着した。そして今、彼はこの村で新しい生活を始めようとしている。
***
村長の家の前で立ち止まると、ライルは深呼吸をした。馬車の御者が言っていた通り、ガルド村長に挨拶をして、今後のことを相談しなければならない。
軽くノックすると、しばらくして扉が開いた。
「いらっしゃい、何か用かな?」
現れたのは、白髪交じりの髭を蓄えた初老の男性だった。背はそれほど高くないが、筋肉質な腕と日焼けした顔からは、長年の労働で鍛えられた強さが感じられた。その目は鋭いが、どこか温かみもある。
「初めまして。ライル・アッシュフォードと申します」ライルは丁寧に頭を下げた。「王都からの移住者です」
「ああ、連絡は受けていたよ」男性は親しげに微笑んだ。「私がこの村の村長、ガルド・ブラウンだ。よく来たね、アッシュフォード君」
ガルドは彼を家の中へと招き入れた。
「さあ、中へ入りなさい。長旅だったろう?」
家の中は質素ながらも温かな雰囲気に包まれていた。暖炉には小さな火が灯り、壁には手編みの織物や、季節の花を飾った花瓶が置かれている。
「座りなさい」ガルドはテーブルの椅子を指さした。「お茶を入れよう」
「ありがとうございます」
ライルが腰を下ろすと、ガルドは台所からハーブの香りがする温かい飲み物を持ってきた。
「村の特産、柳葉茶だ。疲れを癒してくれるよ」
一口飲むと、爽やかな香りと優しい甘みが広がった。これまで飲んだことのない味だが、不思議と心が落ち着くのを感じた。
「美味しいです」
「そうかい、それは良かった」ガルドは嬉しそうに笑った。「さて、王都からの書類によると、君は魔導師養成院に所属していたそうだね」
「はい……でも、スキルが未発現で……」
「気にすることはない」ガルドは手を振った。「この村では、そんなことは重要ではないよ。むしろ、魔法の知識がある若者が来てくれたのは嬉しい限りだ」
旅の途中で出会ったジョンとマリアの言葉を思い出し、ライルは少し安心した。
「王都からの通達では、君に割り当てられた仕事は農業だな」ガルドは書類を確認しながら言った。「村の北側に使われていない畑と空き家がある。少し手入れが必要だが、君のものにしていいよ」
「本当ですか?」
「ああ。この村には今、若い働き手が足りないんだ。君のような若者が来てくれるのは本当に助かる」
ガルドの話によると、ウィロウ村は人口約百人ほどの小さな村で、主に農業と一部の手工業で生計を立てているという。近年は若者が王都へ出て行くことも多く、農地の一部が放置されているのだそうだ。
「明日、その家と畑を案内しよう」ガルドは言った。「今夜は疲れているだろうから、うちの客間に泊まりなさい」
「そんな、迷惑をかけてしまいます」
「遠慮することはない。辺境では、お互いに助け合って生きているんだよ」ガルドは温かく微笑んだ。「それに、私も一人暮らしだから、たまには誰かと食事をするのも悪くない」
ライルは深く頭を下げた。王都では考えられないような親切に、胸が熱くなった。
***
翌朝、ライルはガルドの家の窓から朝日が差し込むのを感じて目を覚ました。木々のざわめきと小鳥のさえずりが、王都とは違う朝の訪れを告げている。
「おはよう、よく眠れたかい?」
ガルドは既に朝食の準備をしていた。テーブルには焼きたてのパンと、茹でた卵、そして野菜のスープが並んでいる。
「はい、久しぶりにぐっすり眠れました」
「それは良かった。さあ、朝食にしよう。それから家と畑を見に行こう」
朝食をともにしながら、ガルドはウィロウ村の歴史や風習について話してくれた。村の名前は、周囲に生い茂る柳の木に由来するという。また、春には柳の若葉を使った祭りがあり、村人総出で踊りと食事を楽しむのだそうだ。
「お茶もそうだけど、この村では柳にまつわる文化が多いんだ」
朝食を終えると、二人は村の北側へと向かった。朝の光の中、村の様子がよく見えるようになった。
石畳の小道は中央広場から放射状に伸び、その周りに民家や小さな店が点在している。村の中心には大きな柳の木があり、その下にはベンチが置かれていた。村人たちが談笑したり、休憩したりする場所なのだろう。
「あそこが市場になる場所だ」ガルドは指差した。「週に一度、近隣の村からも商人が集まる。小さいけれど、必要なものはだいたい手に入るよ」
村を抜けると、なだらかな丘の斜面に畑が広がっていた。麦や野菜が植えられた畑の間を、小さな用水路が縫うように流れている。
「村の水源は、あの山から流れる川だ」ガルドは遠くの山を指差した。「水には恵まれているから、農業には適した土地なんだよ」
二人が小道を歩いていると、突然、ライルの視界の端に銀色の影が映った。
「あっ」
振り向くと、道端の茂みの中に、銀色の小さな動物が座っているのが見えた。旅の途中で見たアッシュフォックスだ。金色の瞳が朝日に輝いている。
「アッシュフォックス……」ライルは思わず声に出した。
「おや、珍しいな」ガルドも足を止めた。「あいつらはめったに人前に姿を見せないんだが」
ライルがそっと手を伸ばすと、小動物はピクリと耳を動かしたが、逃げ出すことはなかった。むしろ、好奇心に満ちた目でライルを見つめ返してきた。
「なんだか、君に興味があるみたいだね」ガルドは驚いた様子で言った。
しかし次の瞬間、何かを察したように、アッシュフォックスは身を翻して茂みの中へと消えていった。その動きは軽やかで、まるで風のようだった。
「不思議だな……」ライルは小動物が消えた方向をしばらく見つめていた。
「この村では、アッシュフォックスは幸運の象徴とされているんだ」ガルドは意味深な笑みを浮かべた。「君は幸運を呼び込む素質があるのかもしれないね」
***
しばらく歩くと、二人は村はずれの小高い丘の上に着いた。そこには一軒の古い家が建っていた。
「これが君の家だ」
ライルは息を呑んだ。家と言えるかどうか微妙なほど、建物は荒れていた。屋根の一部が壊れており、窓ガラスは何枚か割れている。壁の板も所々剥がれ落ち、庭は雑草が膝の高さまで伸びていた。
「随分と……古いですね」ライルは言葉を選びながら言った。
「ああ、十年ほど誰も住んでいないからね」ガルドは申し訳なさそうに言った。「でも、基礎はしっかりしているし、修理すれば十分住めるようになるよ。村の大工のドリアンも手伝ってくれるだろう」
家の周りを歩きながら、ライルは建物の状態を確認した。確かに、骨組みはしっかりしているように見える。屋根の修理と窓の交換、それから壁板の補修が必要だが、不可能ではなさそうだ。
「この家、かつては村の見張り小屋だったんだ」ガルドは説明した。「丘の上にあるから、村全体が見渡せるだろう?」
確かに、ここからは村全体と周囲の田畑、そして遠くの山々まで見渡すことができた。風景はただただ美しく、ライルは思わず深呼吸をした。澄んだ空気が肺に入り、心が洗われるような感覚を覚えた。
「家の後ろには畑になる土地もある」ガルドは家の裏手を指差した。「今は荒れているけど、耕せば立派な畑になるはずだ」
ライルが見ると、家の裏には確かに広い土地が広がっていた。雑草と低木に覆われているが、平らで日当たりの良い場所だ。
「ここを……僕の畑にするんですね」
「そうだ。どうだい? 気に入ったかい?」
ライルは少し考えてから、微笑んだ。「はい。素晴らしい場所です」
確かに家はボロボロだが、この景色と静けさは王都では決して手に入らないものだった。それに、自分の手で家を修理し、畑を耕す。それはある意味、まっさらから始められる新しい人生だ。
「修理するのは大変そうですが、頑張ります」
「その意気だ」ガルドは彼の肩を叩いた。「村人たちも手伝ってくれるから、心配することはないよ」
二人は家の中に入った。内部は埃だらけで、床は一部腐食していた。しかし、暖炉は無事で、調理スペースとなる台所も最小限の修理で使えそうだった。二階には小さな寝室があり、窓からは遠くの山々が見えた。
「確かに、手入れが必要だな……」ライルは呟いた。
「まずは屋根と窓だね」ガルドは実務的に言った。「それから床と壁。優先順位をつけていけば、一ヶ月もあれば住めるようになるだろう」
「一ヶ月……」
ライルは窓から見える景色を眺めながら、これからの生活に思いを馳せた。王都では魔導師になることだけを目標に生きてきた。だが今、彼の前には全く違う世界が広がっている。
自分の家を修理し、土を耕し、作物を育てる。そんな生活は、王都にいた頃には想像もしなかった。だが不思議と、その思いはライルの心を穏やかな期待で満たした。
「のんびり暮らしたいだけだったんだ」
そう呟いて、ライルは窓の外に広がる風景をもう一度見つめた。空は青く広がり、風に揺れる草原の向こうには森が見え、その先には山々が連なっている。
そして彼の耳に、かすかな風の音と、どこか遠くから聞こえる小川のせせらぎが届いた。この場所で、彼の新しい人生が始まろうとしていた。