第2話「辺境への長い道のり」
朝露が草木を濡らす早朝、ライル・アッシュフォードは王都の北門に立っていた。空はまだ薄暗く、わずかな旅人が行き交うだけの静かな時間帯。彼の旅立ちを見送る者はいなかった。
「北行き辺境馬車、乗車の方はこちらへ」
声に従い、ライルは小さな荷物を抱えて木製の商用馬車へと歩み寄った。馬車には既に数人が乗り込んでいた。商人らしき男性、農具を抱えた初老の夫婦、そして彼と同じように「無能」の烙印を押されたのだろう、肩を落とした若い女性。
「乗車券を」
無愛想な御者に券を渡すと、ライルは馬車の一番後ろの席に腰を下ろした。小さな窓から見える王都の景色を、最後にもう一度眺めておきたかったからだ。
「出発するぞ」
鞭の音と共に馬車が動き出した。ライルは深呼吸をして、窓の外を眺めた。徐々に遠ざかっていく王城の尖塔。七年間、毎日見ていた風景が、今はただの絵のように感じられた。
***
「君も辺境行きかい?」
揺れる馬車の中で、向かいに座った初老の男性が話しかけてきた。腕に農具の入った袋を抱え、温かな微笑みを浮かべている。
「はい。アーデン村というところまで行くことになっています」ライルは答えた。
「アーデン村か。私たちの行先はモス村だから、途中まで一緒だね」男性は隣に座る妻に目配せして続けた。「私はジョン、妻のマリアと一緒に王都で農具の修理をしていたんだ。故郷に帰る途中さ」
「ライルです。ライル・アッシュフォード」
「農具の袋を持っているけど、君も農業関係かい?」
ライルは少し考えてから答えた。「いえ、魔導師を目指していたんですが……スキルが出なくて」
言いかけて、ライルは口をつぐんだ。しかし、ジョンは同情的な視線を向けることなく、むしろ嬉しそうに目を輝かせた。
「それはいい! 辺境では魔法の知識を持つ人材は貴重だよ。スキルがなくても、理論がわかる人間は重宝される」
思いがけない反応に、ライルは少し驚いた。王都では、スキルのない人間は無能と見なされる。ましてや彼のように「スキル未発現」と烙印を押された者は、哀れみの目で見られるのが関の山だった。
「本当ですか?」
「ああ、もちろんさ」ジョンは頷いた。「辺境の村ではね、人々は助け合って生きている。それぞれができることを持ち寄って、村全体を支えているんだ。君のような知識を持った若者は大歓迎さ」
マリアも穏やかに微笑んだ。「私たちの村では、星読みの占い師がいるけど、彼女もスキルは持っていないの。でも、占いの知識だけで十分に村の役に立っているわ」
初めて出会った人々の温かさに、ライルの胸に小さな希望が灯った。
***
馬車は一日目の終点、クロスロード亭に到着した。ここは王都と辺境を結ぶ街道の中継点として栄える小さな宿場町だ。
「皆さん、一泊して明日また出発します。各自で宿を取るように」
御者の声に従い、乗客たちは馬車を降りた。ジョンとマリアはライルを誘ってくれた。
「若い者同士で食事でもしようじゃないか。この宿の鹿肉シチューは格別だよ」
クロスロード亭の暖炉の前に席を取ると、ジョンは地元の料理を注文した。
「王都の食事はどうだった?」マリアが尋ねた。
「正直、あまり記憶にないんです」ライルは少し恥ずかしそうに答えた。「学院の食堂か、安い食堂ばかりで……」
「それは勿体ない」マリアは首を振った。「食事はね、その土地の恵みそのもの。これから辺境で暮らすなら、季節の恵みを味わうことを忘れちゃいけないよ」
しばらくして、大きな陶器の器に入ったシチューと、焼きたてのパンが運ばれてきた。香ばしい香りが食欲をそそる。
「さあ、遠慮なく」
ジョンの勧めに従い、ライルはスプーンをシチューに入れた。一口食べると、肉の柔らかさと香草の香りが口いっぱいに広がった。王都の食堂では決して味わえなかった深みのある味だった。
「美味しい……」
素直な感想に、夫婦は嬉しそうに笑った。
「でしょう? シチューの秘訣は、ゆっくり煮込むこと。急がない。辺境の生活もそんな感じさ」ジョンは言いながらパンをちぎった。「急ぐことなんてない。自分のペースで生きていけばいい」
その夜、初めて知った田舎料理の美味しさと、見知らぬ人々の優しさが、ライルの心を温かく包んだ。
***
二日目の旅は、さらに景色が変わっていった。王都周辺の整備された農地から、徐々に手付かずの自然が増えていく。窓の外を眺めていると、なだらかな丘陵地帯が続き、遠くに青い山脈が見えてきた。
「あれがノースリッジ山脈だ」ジョンが教えてくれた。「あの向こうに広がるのが、北辺境地方さ」
「遠いですね……」
「距離があるからこそ、王都の喧騒から離れて静かに暮らせるんだよ」
馬車が小川を渡る橋を通過する時、ライルはふと水面に目を奪われた。川の淵で、小さな動物が水を飲んでいた。色は銀色に近い灰色で、ふわふわとした毛並みが陽光を反射している。
「あれは……」
「アッシュフォックスだね」ジョンが教えてくれた。「辺境地方の森に住む小さな狐さ。めったに人前に姿を見せないから、見られて幸運だよ」
ライルが見つめていると、その小さな生き物はふと顔を上げ、こちらを見た。一瞬だけ、金色の瞳が光ったように思えた。それから軽やかに身をひるがえすと、森の中へ駆け去っていった。
「もふもふしてましたね」
「ああ、あいつらの毛皮は最高級品だけど、この辺りじゃ神聖視されていて、狩りは禁止されているんだ」
話を聞きながら、ライルは窓の外を見続けた。王都では決して見られなかった光景が、次々と彼の目の前を通り過ぎていく。野生の花々、自由に走り回る小動物たち、風に揺れる草原。
「美しい……」
その言葉は、自分でも気づかないうちに口をついて出ていた。
***
三日目の朝、馬車はジョンとマリアの降りる村に到着した。
「ここでお別れだね」ジョンは馬車から降りながら言った。「アーデン村はまだ先だけど、きっと素敵な村だよ。辺境の村はどこも人情味があるからね」
「本当にありがとうございました」ライルは心からお礼を言った。「お二人のおかげで、旅が楽しくなりました」
「気にしないで」マリアは微笑んだ。「辺境で幸せを見つけてね」
二人が手を振りながら歩いていく後ろ姿を、ライルは少し寂しく見送った。初めての友人と言っていいのかもしれない。王都では、彼のことを気にかけてくれる人はほとんどいなかったのだから。
馬車は再び動き出し、山間の細い道を進んでいった。
***
四日目の夕方、ライルはようやく目的地に近づいていた。馬車には彼一人だけが残っていた。
「あと一時間でアーデン村だ」御者が告げた。「最後の村だからな」
「はい、ありがとうございます」
ライルは窓の外を見つめながら、これから始まる新しい生活に思いを馳せた。王都で夢見た魔導師の道は閉ざされたが、今は「のんびり暮らしたい」という素直な願いが胸の中にあった。
道はさらに細くなり、森が深くなっていく。夕日が木々の間から差し込み、黄金色の光が地面を照らしていた。ライルがぼんやりと景色を眺めていると、森の中で何かが動いたように感じた。
目を凝らすと、先日見たアッシュフォックスのような銀色の生き物が、一瞬だけ姿を見せた。特徴的な金色の瞳が、夕日に照らされて輝いている。
「また会えたな」
ライルが小さく呟くと、その生き物は耳をピクリと動かし、すぐに茂みの中へと消えていった。不思議な親近感を覚えつつも、彼はそれ以上考える間もなく、馬車が急に減速したことに気づいた。
「到着だ。アーデン村だぞ」
御者の言葉に、ライルは身を乗り出して前方を見た。小さな木の橋を渡ったその先に、こじんまりとした村が見えてきた。茅葺き屋根の家々が点在し、中央には小さな広場のようなものがある。夕暮れ時なのか、人の姿はまばらだった。
「ここが……アーデン村」
ライルは馬車から降り、初めて辺境の土を踏みしめた。空気は澄んでいて、草木の香りと土の匂いが混ざり合っている。王都のような喧騒はなく、ただ風の音と遠くの鳥の鳴き声だけが聞こえていた。
「役所はあっちだ」御者は村の中心を指さした。「村長のガルドに会うといい」
「ありがとうございます」
ライルは深呼吸して、村の中へと歩き始めた。長い旅路を経て、彼の新しい生活がようやく始まろうとしていた。