第1話「王都からの追放」 朝の光が窓から差し込み、埃の舞う小さな屋根裏部屋を淡い金色に染め上げた。ライル・アッシュフォードは目を細めながら、古びた木製の椅子に腰かけ、机の上に置かれた通達書を何度目かの読み返していた。 「魔導師養成院より、ライル・アッシュフォード殿へ——」 目が滑るように文面を追う。それは彼がこの三日間で百回は読んだ文面だった。 「——スキル適性検査の最終結果により、貴殿の魔導師としての適性は認められず、王都における在留資格を取り消す——」 ライルは深いため息をついた。二十二年の人生で、これほど長いため息をついたことはなかった。 「——速やかに王都を離れ、辺境地域への移住をされたし——」 彼は窓の外へと視線を向けた。王都レーゲンブルクの朝は、いつも通り活気に満ちていた。石畳の通りを行き交う人々、開店準備に追われる店主たち、遠くに聳える王城の尖塔——そのどれもが、明日からは彼の日常から消えるのだ。 「無能っていうのも悪くないさ」 自嘲気味に呟いて、ライルは通達書を折りたたみ、旅用の鞄に滑り込ませた。「無能」——それは王都で最も忌み嫌われる烙印だった。この世界では、生まれた時から持つとされる「スキル」が、人の価値を決める。王都に住む資格があるのは、強力なスキルを持つ者だけ。そして、彼のようにスキルが「未発現」の者は——。 「ライル、起きてる?」 軽いノックと共に、階下の大家であるマーサおばさんの声が届いた。 「はい、起きてます」 「今日が最後の日だって聞いたよ。何か手伝えることはないかい?」 「大丈夫です。荷物もほとんどないので」 実際、彼の所持品は小さな鞄一つに収まるほどだった。魔導師を目指して七年間……その間に得たものといえば、使い古された魔法書数冊と、わずかな生活道具だけ。 「そうかい……」マーサの声には遠慮がちな同情が滲んでいた。「朝食はできてるから、降りておいで。さっぱりした味だけど、旅立ちの朝くらいは何か食べていったほうがいいよ」 「ありがとうございます」 階下へ降りると、質素ながらも心のこもった朝食が用意されていた。パンと卵、わずかなベーコンとハーブティー。王都の一般家庭の日常的な食事だが、今日はライルにとって特別な味がした。 「四年間、お世話になりました」ライルはマーサに感謝を告げた。 「あんたはいい子だったよ」マーサは首を振りながら言った。「スキルなんて、人の価値を決めるものじゃないよ。王都の連中はそれがわからないだけさ」 ライルは微笑むしかなかった。マーサの言葉は優しいが、この世界の現実は違う。スキルこそが全てなのだ。 「行き先は決まったの?」マーサが尋ねた。 「北の辺境です。アーデン村というところ」ライルはパンをかじりながら答えた。「移住先は選べないんですよ。役所が決めてくれました」 「随分と遠いところね……」 「聞いた話では、のどかな村だそうです」ライルは明るく振る舞おうとした。「畑を耕して、のんびり暮らすのも悪くないかもしれませんね」 マーサは少し寂しそうに微笑んだ。「そうね。あんたなら、どこでもうまくやっていけるよ」 朝食を終えた後、ライルは最後の準備を整えた。魔法書は重いが、これだけは手放したくなかった。七年間の努力の証だ。成果はなくとも、彼の青春そのものだった。 *** 王立魔導師養成院——それは王都で最も美しい建物の一つだった。白い大理石の柱と、青い水晶のドームが空に向かって伸びる壮麗な建築物。ライルは最後に一度、この建物を訪れることにした。 「来る必要はなかっただろう」 冷たい声が背後から聞こえた。振り向くと、銀の刺繍が施された青いローブを纏った男が立っていた。養成院の教授、ジェイク・フェリウス。ライルの七年間の師であり、最も厳しい批評家でもあった人物だ。 「さよならを言いたくて」ライルは微笑んで答えた。「七年間、ありがとうございました」 ジェイクは口角を下げた。「感謝されるようなことはしていない。お前は才能がないのに、無駄に時間を浪費しただけだ」 ライルは黙って首を縦に振った。反論する気力はなかった。七年間、彼は誰よりも努力してきた。夜遅くまで魔法書を読み、呪文を練習し、魔力の流れを感じようと己を追い込んできた。それでも、スキルは目覚めなかった。 ジェイクはライルをじっと見つめた。「お前は頭がいい。理論はわかる。だが、スキルなしでは魔道は極められん。それが現実だ」 「わかっています」 「辺境でも、その頭を使え。農業や交易なら、魔法なしでもやっていける。無理に魔導を追うな」 それは意外なほど実用的なアドバイスだった。ジェイクなりの贈り物だったのかもしれない。 「はい。ありがとうございます」 ジェイクは軽く頷くと、何も言わずに養成院の中へと戻っていった。 *** 「いや、マジかよ。あのライルが追放?」 「聞いたぜ。結局、スキル出なかったんだってさ」 「七年も粘ったのに……惜しいよな」 「でも、スキルないやつが王都にいても無駄だしな」 王都の中央広場を通り抜けながら、ライルは周囲の噂話が耳に入ってきた。彼の追放は、すでに町中の話題になっていたようだ。かつての同級生たちは、彼を見つけると視線を逸らすか、同情的な目で見るかのどちらかだった。 最後に立ち寄ったのは、王都の城壁に近い小さな丘だった。ここからは王都全体を見渡すことができる。七年前、初めて王都に来た日、彼はこの丘に立ち、夢と希望に胸を膨らませていた。 「僕は魔導師になる」そう誓った場所だ。 風が吹き、王都の匂いが鼻腔をくすぐった。パンの香り、花の香り、人々の活気が混ざり合った匂い。明日からは、辺境の土の匂いがするのだろうか。 ライルはゆっくりと目を閉じた。王都での七年間が走馬灯のように頭を巡る。 最初の日、養成院の入学試験に合格した時の喜び。 二年目、初めての実技試験で失敗し、クラスメイトに笑われた日。 四年目、夜通し勉強して理論試験でクラス一位を取ったが、実技では最下位だった時の複雑な気持ち。 六年目、スキル未発現者は副業として農業を学ぶことを「勧められた」日。 そして最後の日、最終適性検査で「スキル未発現」の烙印を押された瞬間。 「王都、さようなら」 ライルは小さく呟いた。悔しさはあるが、不思議と心は穏やかだった。七年間、彼は全力で走り続けてきた。努力の末に得た結果は「無能」の烙印。それでも、彼は後悔していなかった。 夕暮れの光が王都を赤く染め上げる中、ライルは丘を下り始めた。明日の朝、彼は北の辺境へと向かう馬車に乗る。新しい人生の始まりだ。 「のんびり暮らしたいだけなんだけどな」 風に向かって呟いた言葉は、誰にも届かなかった。

折口詠人

第2話「辺境への長い道のり」 朝露が草木を濡らす早朝、ライル・アッシュフォードは王都の北門に立っていた。空はまだ薄暗く、わずかな旅人が行き交うだけの静かな時間帯。彼の旅立ちを見送る者はいなかった。 「北行き辺境馬車、乗車の方はこちらへ」 声に従い、ライルは小さな荷物を抱えて木製の商用馬車へと歩み寄った。馬車には既に数人が乗り込んでいた。商人らしき男性、農具を抱えた初老の夫婦、そして彼と同じように「無能」の烙印を押されたのだろう、肩を落とした若い女性。 「乗車券を」 無愛想な御者に券を渡すと、ライルは馬車の一番後ろの席に腰を下ろした。小さな窓から見える王都の景色を、最後にもう一度眺めておきたかったからだ。 「出発するぞ」 鞭の音と共に馬車が動き出した。ライルは深呼吸をして、窓の外を眺めた。徐々に遠ざかっていく王城の尖塔。七年間、毎日見ていた風景が、今はただの絵のように感じられた。 *** 「君も辺境行きかい?」 揺れる馬車の中で、向かいに座った初老の男性が話しかけてきた。腕に農具の入った袋を抱え、温かな微笑みを浮かべている。 「はい。アーデン村というところまで行くことになっています」ライルは答えた。 「アーデン村か。私たちの行先はモス村だから、途中まで一緒だね」男性は隣に座る妻に目配せして続けた。「私はジョン、妻のマリアと一緒に王都で農具の修理をしていたんだ。故郷に帰る途中さ」 「ライルです。ライル・アッシュフォード」 「農具の袋を持っているけど、君も農業関係かい?」 ライルは少し考えてから答えた。「いえ、魔導師を目指していたんですが……スキルが出なくて」 言いかけて、ライルは口をつぐんだ。しかし、ジョンは同情的な視線を向けることなく、むしろ嬉しそうに目を輝かせた。 「それはいい! 辺境では魔法の知識を持つ人材は貴重だよ。スキルがなくても、理論がわかる人間は重宝される」 思いがけない反応に、ライルは少し驚いた。王都では、スキルのない人間は無能と見なされる。ましてや彼のように「スキル未発現」と烙印を押された者は、哀れみの目で見られるのが関の山だった。 「本当ですか?」 「ああ、もちろんさ」ジョンは頷いた。「辺境の村ではね、人々は助け合って生きている。それぞれができることを持ち寄って、村全体を支えているんだ。君のような知識を持った若者は大歓迎さ」 マリアも穏やかに微笑んだ。「私たちの村では、星読みの占い師がいるけど、彼女もスキルは持っていないの。でも、占いの知識だけで十分に村の役に立っているわ」 初めて出会った人々の温かさに、ライルの胸に小さな希望が灯った。 *** 馬車は一日目の終点、クロスロード亭に到着した。ここは王都と辺境を結ぶ街道の中継点として栄える小さな宿場町だ。 「皆さん、一泊して明日また出発します。各自で宿を取るように」 御者の声に従い、乗客たちは馬車を降りた。ジョンとマリアはライルを誘ってくれた。 「若い者同士で食事でもしようじゃないか。この宿の鹿肉シチューは格別だよ」 クロスロード亭の暖炉の前に席を取ると、ジョンは地元の料理を注文した。 「王都の食事はどうだった?」マリアが尋ねた。 「正直、あまり記憶にないんです」ライルは少し恥ずかしそうに答えた。「学院の食堂か、安い食堂ばかりで……」 「それは勿体ない」マリアは首を振った。「食事はね、その土地の恵みそのもの。これから辺境で暮らすなら、季節の恵みを味わうことを忘れちゃいけないよ」 しばらくして、大きな陶器の器に入ったシチューと、焼きたてのパンが運ばれてきた。香ばしい香りが食欲をそそる。 「さあ、遠慮なく」 ジョンの勧めに従い、ライルはスプーンをシチューに入れた。一口食べると、肉の柔らかさと香草の香りが口いっぱいに広がった。王都の食堂では決して味わえなかった深みのある味だった。 「美味しい……」 素直な感想に、夫婦は嬉しそうに笑った。 「でしょう? シチューの秘訣は、ゆっくり煮込むこと。急がない。辺境の生活もそんな感じさ」ジョンは言いながらパンをちぎった。「急ぐことなんてない。自分のペースで生きていけばいい」 その夜、初めて知った田舎料理の美味しさと、見知らぬ人々の優しさが、ライルの心を温かく包んだ。 *** 二日目の旅は、さらに景色が変わっていった。王都周辺の整備された農地から、徐々に手付かずの自然が増えていく。窓の外を眺めていると、なだらかな丘陵地帯が続き、遠くに青い山脈が見えてきた。 「あれがノースリッジ山脈だ」ジョンが教えてくれた。「あの向こうに広がるのが、北辺境地方さ」 「遠いですね……」 「距離があるからこそ、王都の喧騒から離れて静かに暮らせるんだよ」 馬車が小川を渡る橋を通過する時、ライルはふと水面に目を奪われた。川の淵で、小さな動物が水を飲んでいた。色は銀色に近い灰色で、ふわふわとした毛並みが陽光を反射している。 「あれは……」 「アッシュフォックスだね」ジョンが教えてくれた。「辺境地方の森に住む小さな狐さ。めったに人前に姿を見せないから、見られて幸運だよ」 ライルが見つめていると、その小さな生き物はふと顔を上げ、こちらを見た。一瞬だけ、金色の瞳が光ったように思えた。それから軽やかに身をひるがえすと、森の中へ駆け去っていった。 「もふもふしてましたね」 「ああ、あいつらの毛皮は最高級品だけど、この辺りじゃ神聖視されていて、狩りは禁止されているんだ」 話を聞きながら、ライルは窓の外を見続けた。王都では決して見られなかった光景が、次々と彼の目の前を通り過ぎていく。野生の花々、自由に走り回る小動物たち、風に揺れる草原。 「美しい……」 その言葉は、自分でも気づかないうちに口をついて出ていた。 *** 三日目の朝、馬車はジョンとマリアの降りる村に到着した。 「ここでお別れだね」ジョンは馬車から降りながら言った。「アーデン村はまだ先だけど、きっと素敵な村だよ。辺境の村はどこも人情味があるからね」 「本当にありがとうございました」ライルは心からお礼を言った。「お二人のおかげで、旅が楽しくなりました」 「気にしないで」マリアは微笑んだ。「辺境で幸せを見つけてね」 二人が手を振りながら歩いていく後ろ姿を、ライルは少し寂しく見送った。初めての友人と言っていいのかもしれない。王都では、彼のことを気にかけてくれる人はほとんどいなかったのだから。 馬車は再び動き出し、山間の細い道を進んでいった。 *** 四日目の夕方、ライルはようやく目的地に近づいていた。馬車には彼一人だけが残っていた。 「あと一時間でアーデン村だ」御者が告げた。「最後の村だからな」 「はい、ありがとうございます」 ライルは窓の外を見つめながら、これから始まる新しい生活に思いを馳せた。王都で夢見た魔導師の道は閉ざされたが、今は「のんびり暮らしたい」という素直な願いが胸の中にあった。 道はさらに細くなり、森が深くなっていく。夕日が木々の間から差し込み、黄金色の光が地面を照らしていた。ライルがぼんやりと景色を眺めていると、森の中で何かが動いたように感じた。 目を凝らすと、先日見たアッシュフォックスのような銀色の生き物が、一瞬だけ姿を見せた。特徴的な金色の瞳が、夕日に照らされて輝いている。 「また会えたな」 ...

折口詠人

第3話「ウィロウ村到着と不思議な導き」 夕暮れの柔らかな光が村を金色に染め上げていた。ライル・アッシュフォードは肩に荷物を担ぎ、ゆっくりとウィロウ村の中心へと歩を進めた。土の道は雨上がりのようにしっとりとしており、彼の足跡がはっきりと残る。 村の中は予想以上に静かだった。時折、家々の窓から漏れる明かりや、どこかで響く鍋を叩く音だけが、生活の営みを物語っていた。 「どこが役所なんだろう」 ライルが辺りを見回していると、一人の少年が小走りで彼の前を横切った。 「すみません」ライルは少年を呼び止めた。「村の役所はどこですか?」 少年は足を止めて、首を傾げた。「役所?」彼は少し考えて、「ああ、村長の家のことかい?」と言った。「あっちの一番大きい家だよ」 少年が指差した先には、確かに他の家より少し大きな二階建ての家が見えた。屋根には風見鶏のようなものが取り付けられ、玄関先には色とりどりの花が咲いていた。 「ありがとう」 少年はニコリと笑うと、「新しい人?」と尋ねた。 「ああ、今日来たばかりなんだ」 「へえ」少年は興味深そうに彼を見上げた。「じゃあまた!」そう言うと駆け去っていった。 ライルはその後ろ姿を見送りながら、少し緊張を和らげた。王都から四日間の長旅を経て、ようやく辺境の村に到着した。そして今、彼はこの村で新しい生活を始めようとしている。 *** 村長の家の前で立ち止まると、ライルは深呼吸をした。馬車の御者が言っていた通り、ガルド村長に挨拶をして、今後のことを相談しなければならない。 軽くノックすると、しばらくして扉が開いた。 「いらっしゃい、何か用かな?」 現れたのは、白髪交じりの髭を蓄えた初老の男性だった。背はそれほど高くないが、筋肉質な腕と日焼けした顔からは、長年の労働で鍛えられた強さが感じられた。その目は鋭いが、どこか温かみもある。 「初めまして。ライル・アッシュフォードと申します」ライルは丁寧に頭を下げた。「王都からの移住者です」 「ああ、連絡は受けていたよ」男性は親しげに微笑んだ。「私がこの村の村長、ガルド・ブラウンだ。よく来たね、アッシュフォード君」 ガルドは彼を家の中へと招き入れた。 「さあ、中へ入りなさい。長旅だったろう?」 家の中は質素ながらも温かな雰囲気に包まれていた。暖炉には小さな火が灯り、壁には手編みの織物や、季節の花を飾った花瓶が置かれている。 「座りなさい」ガルドはテーブルの椅子を指さした。「お茶を入れよう」 「ありがとうございます」 ライルが腰を下ろすと、ガルドは台所からハーブの香りがする温かい飲み物を持ってきた。 「村の特産、柳葉茶だ。疲れを癒してくれるよ」 一口飲むと、爽やかな香りと優しい甘みが広がった。これまで飲んだことのない味だが、不思議と心が落ち着くのを感じた。 「美味しいです」 「そうかい、それは良かった」ガルドは嬉しそうに笑った。「さて、王都からの書類によると、君は魔導師養成院に所属していたそうだね」 「はい……でも、スキルが未発現で……」 「気にすることはない」ガルドは手を振った。「この村では、そんなことは重要ではないよ。むしろ、魔法の知識がある若者が来てくれたのは嬉しい限りだ」 旅の途中で出会ったジョンとマリアの言葉を思い出し、ライルは少し安心した。 「王都からの通達では、君に割り当てられた仕事は農業だな」ガルドは書類を確認しながら言った。「村の北側に使われていない畑と空き家がある。少し手入れが必要だが、君のものにしていいよ」 「本当ですか?」 「ああ。この村には今、若い働き手が足りないんだ。君のような若者が来てくれるのは本当に助かる」 ガルドの話によると、ウィロウ村は人口約百人ほどの小さな村で、主に農業と一部の手工業で生計を立てているという。近年は若者が王都へ出て行くことも多く、農地の一部が放置されているのだそうだ。 「明日、その家と畑を案内しよう」ガルドは言った。「今夜は疲れているだろうから、うちの客間に泊まりなさい」 「そんな、迷惑をかけてしまいます」 「遠慮することはない。辺境では、お互いに助け合って生きているんだよ」ガルドは温かく微笑んだ。「それに、私も一人暮らしだから、たまには誰かと食事をするのも悪くない」 ライルは深く頭を下げた。王都では考えられないような親切に、胸が熱くなった。 *** 翌朝、ライルはガルドの家の窓から朝日が差し込むのを感じて目を覚ました。木々のざわめきと小鳥のさえずりが、王都とは違う朝の訪れを告げている。 「おはよう、よく眠れたかい?」 ガルドは既に朝食の準備をしていた。テーブルには焼きたてのパンと、茹でた卵、そして野菜のスープが並んでいる。 「はい、久しぶりにぐっすり眠れました」 「それは良かった。さあ、朝食にしよう。それから家と畑を見に行こう」 朝食をともにしながら、ガルドはウィロウ村の歴史や風習について話してくれた。村の名前は、周囲に生い茂る柳の木に由来するという。また、春には柳の若葉を使った祭りがあり、村人総出で踊りと食事を楽しむのだそうだ。 「お茶もそうだけど、この村では柳にまつわる文化が多いんだ」 朝食を終えると、二人は村の北側へと向かった。朝の光の中、村の様子がよく見えるようになった。 石畳の小道は中央広場から放射状に伸び、その周りに民家や小さな店が点在している。村の中心には大きな柳の木があり、その下にはベンチが置かれていた。村人たちが談笑したり、休憩したりする場所なのだろう。 「あそこが市場になる場所だ」ガルドは指差した。「週に一度、近隣の村からも商人が集まる。小さいけれど、必要なものはだいたい手に入るよ」 村を抜けると、なだらかな丘の斜面に畑が広がっていた。麦や野菜が植えられた畑の間を、小さな用水路が縫うように流れている。 「村の水源は、あの山から流れる川だ」ガルドは遠くの山を指差した。「水には恵まれているから、農業には適した土地なんだよ」 二人が小道を歩いていると、突然、ライルの視界の端に銀色の影が映った。 「あっ」 振り向くと、道端の茂みの中に、銀色の小さな動物が座っているのが見えた。旅の途中で見たアッシュフォックスだ。金色の瞳が朝日に輝いている。 「アッシュフォックス……」ライルは思わず声に出した。 「おや、珍しいな」ガルドも足を止めた。「あいつらはめったに人前に姿を見せないんだが」 ライルがそっと手を伸ばすと、小動物はピクリと耳を動かしたが、逃げ出すことはなかった。むしろ、好奇心に満ちた目でライルを見つめ返してきた。 「なんだか、君に興味があるみたいだね」ガルドは驚いた様子で言った。 しかし次の瞬間、何かを察したように、アッシュフォックスは身を翻して茂みの中へと消えていった。その動きは軽やかで、まるで風のようだった。 「不思議だな……」ライルは小動物が消えた方向をしばらく見つめていた。 「この村では、アッシュフォックスは幸運の象徴とされているんだ」ガルドは意味深な笑みを浮かべた。「君は幸運を呼び込む素質があるのかもしれないね」 *** しばらく歩くと、二人は村はずれの小高い丘の上に着いた。そこには一軒の古い家が建っていた。 「これが君の家だ」 ライルは息を呑んだ。家と言えるかどうか微妙なほど、建物は荒れていた。屋根の一部が壊れており、窓ガラスは何枚か割れている。壁の板も所々剥がれ落ち、庭は雑草が膝の高さまで伸びていた。 「随分と……古いですね」ライルは言葉を選びながら言った。 「ああ、十年ほど誰も住んでいないからね」ガルドは申し訳なさそうに言った。「でも、基礎はしっかりしているし、修理すれば十分住めるようになるよ。村の大工のドリアンも手伝ってくれるだろう」 ...

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第4話「畑づくりの始まり」 朝日が昇る頃、ライルは古びた木造の家から出てきた。昨日の雨で湿った空気が肌に心地よく感じられる。小鳥のさえずりが辺りに響き、草の葉には朝露がきらきらと輝いていた。 「さて、今日こそは本格的に畑を作り始めるか」 ライルは軽く伸びをすると、家の脇に立てかけておいた鍬を手に取った。村長のガルドから譲り受けたその鍬は、長年使い込まれた跡が見える古道具だったが、刃の部分はしっかり手入れされており、まだまだ現役で使えるものだった。 「使い方は……こんな感じかな」 鍬を両手で持ち、畑にしようと思っている場所に立つ。家の南側、日当たりの良い緩やかな傾斜地だ。すでに雑草が生い茂っているが、この場所なら水はけも良さそうだし、朝から夕方まで太陽の光が当たる。 ライルは鍬を地面に突き立て、力を込めて土をすくい上げようとした。 「うっ……思ったより重い」 最初の一掘りは予想以上に手ごわかった。鍬の刃が土に少し刺さっただけで、ほとんど動かない。ライルは額に汗を浮かべながら、再び力を込めた。 「はぁっ!」 何とか土を掘り起こすことができたが、掘り返された土の量はごくわずかだった。 「これじゃあ一日中やっても、小さな畑しかできないな……」 王都の魔導士養成院にいた時は、こんな肉体労働とは無縁の生活だった。魔法の理論や魔力の扱い方については多少の知識があっても、実際の農作業についてはまったくの素人だ。 「でも、ここで暮らしていくなら、自分の手で食べ物を育てられるようにならないと」 ライルは深呼吸して決意を新たにし、再び鍬を振るった。少しずつではあるが、土が掘り返されていく。 *** 昼過ぎになると、太陽が高く昇り、初夏の陽気が辺りを包み込んだ。ライルの額からは汗が滝のように流れ落ち、背中はすっかり汗で濡れていた。 「はぁ……はぁ……休憩、休憩」 ようやく小さな区画の草を取り除き、土を掘り返したところで、ライルは鍬を地面に突き立てて腰を下ろした。手のひらを見ると、すでに赤くなり始め、小さな水ぶくれができかけていた。 「魔導書を持つのと鍬を持つのとじゃ、使う筋肉がまったく違うんだな……」 そんな時、何かを感じて顔を上げると、畑から少し離れた木立の陰に、銀色の小さな影が見えた気がした。 「あれは……」 目を凝らして見つめるが、影はすでに消えていた。昨日も同じような気配を感じたような……。しかし考える暇もなく、近くから声がかかった。 「ライルさん、がんばってるねぇ」 振り返ると、村の薬師であるメリアが立っていた。茶色の髪を一つに結び、腰に薬草を入れた籠を下げている。 「ああ、メリアさん。こんにちは」 「初めての畑仕事、どう? 慣れない仕事は大変でしょ?」 メリアは心配そうにライルの手を見ると、眉をひそめた。 「もう水ぶくれができかけてるわ。このまま続けたら破れちゃうよ」 「大丈夫です、少しの痛みなら……」 「大丈夫じゃないわ。ちょっと待ってて」 メリアは籠から小さな布袋を取り出し、中から薬草の軟膏を出した。 「はい、これを塗って。薬草の軟膏よ。痛みも和らぐし、皮膚も丈夫になるわ」 「ありがとうございます」 ライルが軟膏を手のひらに塗ると、ひんやりとした感触とともに、じんわりと痛みが引いていくのを感じた。 「それと、これも持っていきなさい」 メリアは籠から木の実とパンを取り出した。 「お昼ご飯に。一人で頑張ってるのは偉いけど、体が資本なんだから、ちゃんと休憩もしないとね」 「メリアさん……ありがとうございます」 ライルは心からの笑顔で礼を言った。王都では冷たい視線を向けられることが多かったが、この村の人たちは違う。温かく、親切だ。 メリアはにっこりと笑うと、「頑張りすぎないでね」と言い残して、薬草を採りに行く道を歩いていった。 *** 午後も作業は続いた。メリアからもらった軟膏のおかげで手のひらの痛みは和らいだが、それでも慣れない作業で体中の筋肉が悲鳴をあげていた。 「うぅっ……腕が上がらない」 何度か休憩を挟みながら、少しずつ畑の形になっていく土地を見て、ライルは小さな達成感を味わっていた。 ふと、また視線を感じて顔を上げると、今度ははっきりと銀色の小さな姿が見えた。小さな子狼のような生き物が、森の縁から彼を見つめている。金色の瞳がライルをじっと観察していた。 「やっぱり、昨日から見ていたのはあの子か……」 ライルがゆっくり立ち上がると、子狼は身構えたが、逃げはしなかった。 「大丈夫だよ、怖くないよ」 優しく声をかけながら一歩踏み出すと、子狼はピクリと耳を動かし、好奇心に満ちた表情で首をかしげた。しかし、それ以上近づこうとすると、さっと身をひるがえして森の中へ消えていった。 「不思議な子だな……普通の狼じゃないみたいだ」 夕方が近づき、西の空が赤く染まり始めた頃、ライルはようやく一日の作業を終えた。まだ全体の三分の一ほどしか耕せていないが、それでも見違えるように変わった土地を見て、ライルは満足感を覚えた。 「明日も頑張ろう」 鍬を肩に担ぎ、筋肉痛に耐えながら家に戻る途中、ライルは森の方をもう一度振り返った。もうあの銀色の子狼の姿はなかったが、何かが彼を見守っている感覚があった。 家に帰ると、小さな囲炉裏に火を起こし、メリアからもらった残りのパンと、自分で調達した山菜のスープを作った。熱いスープを口に運ぶと、素朴だが心のこもった味が体を温めた。 「明日はもう少し耕せるといいな……」 窓の外を見ると、満天の星が輝いていた。都会では見られない、透き通るような夜空。ライルは明日への期待を胸に、疲れた体を休めることにした。 *** 翌朝、ライルが起きると、全身が悲鳴をあげていた。 「うっ……動けない……」 昨日の作業で使った筋肉が、今までに経験したことのないような痛みを訴えている。無理に起き上がろうとすると、背中から腰、腕から肩にかけて、ありとあらゆる場所が痛んだ。 「こんなんじゃ今日は作業できないかも……」 しかし、せっかく始めた畑づくり。諦めるわけにはいかない。 「少しでも動けるようになるまで、ストレッチでもするか……」 ライルはゆっくりと体を伸ばし、凝り固まった筋肉をほぐしていった。しばらくすると、少しは動けるようになってきた。 「よし、今日も頑張ろう」 痛みを押して家を出ると、昨日耕した畑の様子を確認した。朝露に濡れた土が、新鮮な匂いを放っている。 「これからここに野菜が育つと思うと、なんだか楽しみだな」 ライルは鍬を手に取り、再び作業を始めた。昨日の経験があるおかげで、少しはコツをつかんできた。鍬の入れ方や力の入れ具合など、少しずつ体が覚えてきている。 ...

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第5話「屋根修理と生活基盤づくり」 朝の光が窓から差し込み、ライルの顔を優しく照らした。目を開けると、天井の一部から漏れる細い光の筋が見える。屋根の隙間から入り込む朝日だ。昨日までは気にならなかったが、畑仕事で体を鍛え始めて一週間が経ち、ようやく周囲の環境に目を向ける余裕が生まれてきた。 「この家、思ったより傷んでるな……」 ライルはゆっくりと起き上がり、古い板の間を見渡した。廃屋同然だったこの家を譲り受けて以来、最低限の掃除はしたものの、本格的な修繕には手をつけていなかった。 「今のうちに直しておかないと、雨季が来たら大変なことになりそうだ」 外に出ると、朝露に濡れた草が足元でキラキラと輝いていた。村はすでに活気づき始めており、遠くからは家畜の鳴き声も聞こえる。ライルは家の周りをゆっくりと一周し、屋根の状態を地上から確認した。 「ところどころ板が抜けてるし、苔も生えてる……完全に腐ってる部分もあるな」 王都の学院では魔導書を読むことはあっても、家の修繕方法を学ぶことはなかった。何から手をつければいいのか、頭を悩ませていると、近くから声がかかった。 「おや、ライルさん。家の様子を見てるのかい?」 振り返ると、がっしりとした体格の中年男性が立っていた。村の大工、マカラだ。 「マカラさん、おはようございます。はい、屋根がかなり傷んでるみたいで……」 マカラは顎鬚を撫でながら、じっと屋根を見上げた。 「ふむ、確かにボロボロだな。雨季が来る前に直しておいた方がいいぞ。特にあそこの東側の部分は、雨漏りがひどそうだ」 「直し方を教えていただけないでしょうか? 材料はどうやって調達したらいいのか、まったく見当もつきません」 マカラは明るく笑った。 「運がいいな。ちょうど今日、村の共同倉庫の屋根を修理する予定でね。手伝ってくれたら、残った材料をわけてやるし、やり方も教えてやるよ」 「本当ですか? ありがとうございます!」 *** 村の共同倉庫は、中央広場から少し離れた場所にあった。すでに何人かの村人たちが集まり、屋根の修理準備を始めていた。 「ようこそ、ライルさん!」 村長のガルドが手を振った。他にも数名の村人が作業の手を止め、ライルに挨拶した。 「みなさん、おはようございます。お手伝いさせてください」 マカラが手際よく指示を出し、作業が始まった。ライルは最初、梯子を支えたり、道具を運んだりという簡単な仕事を任された。 「これは桧の板だ。軽くて丈夫で、水にも強い。屋根材には最適なんだ」 マカラは一枚一枚の板について説明し、ライルはそれを熱心に覚えようとした。 梯子を上り下りする村人たちは皆、息の合った動きで作業を進める。手が空いたときに水を運んだり、汗を拭いたりと、互いに気を配り、協力し合っていた。 「ライル、次はあの板を持ってきてくれるかい?」 作業が進むにつれ、ライルにも少しずつ屋根修理の役割が回ってきた。初めは恐る恐る梯子を上り、不安定な足場に立つこともままならなかったが、村人たちの的確な指示と励ましで、次第に慣れていった。 「そうそう、板と板の間に少し隙間を空けるんだ。木は湿気で膨らむからな」 「釘はこう打つんだ。斜めに打ち込むと、抜けにくくなる」 昼頃になると、作業は一段落し、木陰で昼食を取ることになった。村の女性たちが温かいスープと焼きたてのパンを運んできてくれた。 「はい、ライルさんもどうぞ。畑仕事に屋根修理、大変でしょう?」 メリアが笑顔で食事を差し出した。素朴だが心のこもった料理の香りが食欲をそそる。 「いただきます。みなさんのおかげで、屋根の修理方法がだいぶ分かってきました」 村人たちと輪になって食事をしながら、様々な話に花が咲いた。季節の変わり目の話、昔の大雨の思い出、さらには村の祭りの計画まで。ライルは初めて、こうした村の団欒の中心にいる自分を感じた。 食事の後、作業は再開された。午後からはライルも実際に屋根の上で板を張る作業を任された。 「慎重にな。でも恐れることはない。俺たちがしっかり支えているから」 マカラの言葉に励まされ、ライルは一枚一枚、丁寧に板を並べていった。途中で釘を落としたり、板を滑らせたりするミスもあったが、誰も責めることはなく、むしろ笑い話として場を和ませた。 「俺なんか、初めて屋根に上ったとき、怖くて動けなくなっちまったよ!」 「そうそう、私も若い頃、屋根から滑り落ちて、下の藁の山に突っ込んだことがあるわ」 笑いながらも、確実に作業は進んでいった。 *** 夕方になると、共同倉庫の屋根修理はほぼ完了した。新しい屋根板が整然と並び、倉庫は見違えるように立派になっていた。 「みんな、お疲れ様!」 ガルドの声に、村人たちから歓声が上がった。充実感に満ちた表情で、互いの肩を叩き合う姿があちこちで見られた。 「ライルさん、今日はよく頑張ったな。初めてにしては上出来だ」 マカラがライルの肩を叩いた。 「ありがとうございます。皆さんのおかげです」 「約束通り、余った材料をやるよ。それと明日、俺の息子が手伝いに行くから。お前の家の屋根、一緒に直してやろう」 「本当ですか? 助かります!」 帰り道、ライルは余った屋根板と釘を抱え、疲れた体で家に向かった。途中、銀色の影がチラリと見えたような気がして足を止めた。 「あの子狼か……」 森の縁に目を凝らすと、確かに金色の瞳が光っているのが見えた。ライルがそっと手を振ると、子狼は少しだけ姿を見せ、軽く頭を下げるようなしぐさをした後、静かに森の中へ消えていった。 「また会おうね」 ライルは微笑んで歩き出した。どこか不思議な生き物だが、その存在が心地良かった。 *** 翌朝、約束通りマカラが息子のトビアスを連れてやってきた。トビアスは父親よりも若く、20代半ばといったところだが、すでに腕の立つ大工だと評判だった。 「よろしく頼むよ、ライルさん」 「こちらこそ、よろしくお願いします」 三人で屋根の状態を詳しく調べると、東側が特に傷んでいることが分かった。雨漏りもその部分が原因だろうとマカラは指摘した。 「まずは古い板を剥がすところからだな」 マカラとトビアスの指示に従い、ライルは慎重に古い屋根板を剥がしていった。朽ちた木材はところどころでボロボロと崩れ、長年の風雨に耐えてきた証を見せていた。 「この家、結構古いんだな。でも骨組みはしっかりしている。直せば長く使えるよ」 トビアスの言葉に、ライルは少し嬉しくなった。廃屋同然と思っていた家だが、しっかり手入れすれば、立派な住まいになる可能性があるのだ。 作業は一日がかりで続いた。古い板を取り除き、腐った部分を補強し、新しい板を一枚一枚丁寧に張っていく。ライルは昨日の経験を活かし、積極的に屋根の上での作業も手伝った。 「ライルさん、上手くなったじゃないか!」 マカラが感心の声を上げると、ライルは照れながらも誇らしげに笑った。 ...

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第6話「村の子どもたちとの交流」 初夏の日差しが心地よく降り注ぐ午後、ライルは屋根修理を終えた家の前で一休みしていた。マカラとトビアスの助けを借りて東側の屋根が修理され、昨晩は久しぶりに雨漏りの心配なく眠ることができた。 「西側もいずれ直さないとな……」 ライルがぼんやりと考えていると、遠くから子どもたちの声が聞こえてきた。視線をその方向に移すと、二人の子どもが走ってくるのが見えた。 「ライルさーん!」 元気いっぱいの声とともに、最初に駆け寄ってきたのは男の子だった。トムという名前の9歳の少年で、茶色の髪に大きな茶色の瞳、いつも額に汚れがついている活発な子だ。彼の後ろからは、少し遅れて女の子がついてくる。マリィという7歳の少女で、トムの妹だ。ブロンドの髪を両サイドで結び、青い瞳の可愛らしい子どもだった。 「トム、マリィ、こんにちは」 ライルが笑顔で応えると、二人は息を切らしながらも嬉しそうに近づいてきた。 「ライルさん、今日は何してるの?」 「畑とか、屋根とか、忙しい?」 二人は同時に質問を投げかけてきた。トムは好奇心旺盛な目でライルの家を上から下まで見渡し、マリィはじっとライルの顔を見つめていた。 「今日は少し休憩中なんだ。屋根の修理が一段落したからね」 「すごい! 前よりずっとかっこよくなったね!」トムが屋根を指差して言った。 「見て、マリィ。新しい板がピカピカしてるよ」 「うん、綺麗になったね」マリィは少し照れ臭そうに小さな声で応えた。 ライルは二人の素直な反応に心が温かくなった。 「屋根直してくれたのはマカラさんとトビアスさんだよ。僕はただ手伝っただけさ」 「でもライルさんも上に登ってたよね? かっこよかった!」 トムの目はキラキラと輝いていた。どうやら彼らは遠くから屋根修理の様子を見ていたらしい。 「そういえば、二人は今日は何をしていたの?」 ライルが尋ねると、トムはぴょんと飛び上がるように元気良く答えた。 「僕たちね、秘密の場所で遊んでたんだ! ライルさんも来る? 案内してあげるよ!」 「秘密の場所?」 「うん! 村から少し離れた森の中にあるんだ。僕たちだけの特別な場所なんだよ」 マリィもうなずいて、小さな手でライルの袖を引っ張った。 「来て……見せたいの」 その純粋な誘いを断る理由はなかった。今日の畑仕事はすでに朝のうちに終えていたし、屋根の残りの修理は明日からで良かった。 「いいよ、連れて行ってくれるかい?」 「やったー!」トムは喜びのあまり、その場でぐるぐると回った。「行こう行こう! 今すぐ行こう!」 マリィはにっこりと笑顔を見せ、小さな手をライルに差し出した。ライルはその手を優しく握り、立ち上がった。 「じゃあ、案内してくれ。二人の秘密の場所、楽しみだな」 *** 村から少し離れた小道を、トムが先頭に立って歩いていく。マリィはライルの手をずっと握ったまま、時折、道端の花を指差しては「きれい」と囁いた。 「トムは探検が大好きなんだよね?」 「うん! 毎日新しいところ探すのが楽しいの! 僕が見つけた道だよ、これ」 トムは自慢げに言った。彼は常に前を向いて歩き、時には小枝を拾って剣のように振り回す。冒険が大好きな活発な少年だった。 「マリィは? マリィは何が好きなの?」 静かに歩いていた少女に尋ねると、少し考えてから答えた。 「お花……と、お歌……あと、お話」 「マリィはね、村一番の歌姫なんだよ!」トムが自慢気に言った。「お母さんも、マリィの歌声は妖精みたいだって褒めてるんだ」 マリィは恥ずかしそうに顔を赤らめ、「うん……時々、森で歌うの……小鳥さんたちに」と小さな声で言った。 道は次第に森の中へと入っていった。木々の間から差し込む日光が、地面に美しい光の模様を作り出している。空気は清々しく、鳥のさえずりや木の葉が風で揺れる音が心地よかった。 「あ、見て! リスだよ!」トムが突然立ち止まり、木の上を指差した。 見上げると、小さな栗色のリスが木の枝の上で何かを食べていた。三人が見ていることに気づくと、リスは素早く身を翻して木の向こう側へ消えてしまった。 「リスはとっても臆病なんだ。でも時々、木の実をあげると食べに来てくれるよ」 「トムはリスと友達なの?」 「うん! 森の生き物は皆、友達!」 トムの純真な笑顔に、ライルは心が和んだ。王都では決して味わえなかった、自然とともにある子どもの無邪気さだった。 「あと少しだよ!」トムが先を急ぐように言った。 森の中をさらに進むと、木々が少し開けた小さな空き地に出た。そこには大きな倒木があり、その周りに石が円形に並べられている。小さな木の枝で作られた簡素な小屋のようなものもあった。 「ここが僕たちの秘密基地!」トムは誇らしげに宣言した。 「秘密基地……」ライルはその素朴な空間を見渡して微笑んだ。 「この石は僕が集めたんだ。この大きいのは、川から運んできたんだよ!」 「重かったでしょう?」 「うん! でも、秘密基地のためだから頑張ったんだ!」 マリィは小屋の方へ歩いていき、中から小さな布袋を取り出した。 「これ……私の宝物」 袋の中には、きれいな石や貝殻、色とりどりの鳥の羽、乾いた花などが入っていた。 ...

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第7話「耕し続ける日々」 朝もやが緩やかに立ち上る早朝、ライルは既に畑に立っていた。初夏の日差しはまだ優しく、作業をするには心地よい時間帯だ。手に馴染んできた鍬を握り、リズミカルに土を耕していく。 「だいぶ慣れてきたな」 最初の頃と違い、今では鍬の使い方にも少しずつコツを掴んできた。力の入れ具合や、角度、リズム。それらが少しずつ体に染み込み、以前よりもずっと効率的に作業ができるようになっていた。 手のひらには硬い豆ができ始め、腕の筋肉も少し盛り上がってきた。王都で魔導書ばかり開いていた頃とは違う、たくましさが身についてきている。 ライルは一息つき、これまでの成果を見渡した。家の南側一帯は見違えるように変わり、整然とした畑の形になりつつあった。ガルド村長からもらった種も一部まき始め、芽が出るのを楽しみに待っている。 「おはようございます、ライルさん。今日も早いですね」 振り返ると、老農夫のジョナスが立っていた。杖を突きながらも、畑仕事の現役を引退していない頑強な老人だ。 「ジョナスさん、おはようございます。朝は涼しいので、この時間に作業すると効率がいいんです」 「そうそう、その通り。太陽が高くなる前の作業が一番だ」ジョナスは満足げに頷いた。「見たところ、随分と上達してきたじゃないか」 「ありがとうございます。でも、まだまだですよ」 「謙遜することはない。初めて鍬を持った者がここまでできるようになるのは早い方だ」ジョナスはライルの畑を眺め、しばらく黙って観察していた。「ただ、あそこの部分はもう少し深く掘り返した方がいいな」 ジョナスが指差した場所は、確かに他の部分より浅く耕されていた。 「この辺りは土が少し固くて……」 「ふむ、そういう時はな、こうするんだ」 ジョナスは自分の杖を脇に置くと、ライルから鍬を借り、実演してみせた。年老いた体からは想像できないほどの力強さで、固い土地に鍬を入れていく。 「角度を少し変えて、体重をかけるんだ。そうすれば力が入りやすい」 ライルはジョナスの動きを注意深く観察した。確かに彼のやり方だと、同じ力でもより効率的に土を掘り返せるようだ。 「なるほど……」 鍬を返してもらったライルは、教わった通りの角度で土に挑んだ。 「そうそう、その調子だ!」 ジョナスは満足げに頷き、さらにいくつかのアドバイスをくれた。土の見分け方、季節ごとの耕し方の違い、石ころの処理方法など、長年の経験から来る実践的な知恵の数々だ。 「ありがとうございます、ジョナスさん。本当に勉強になります」 「いいんだよ。村では皆、お互い様だからな」ジョナスは笑顔で言った。「それに、お前さんの畑が上手くいけば、村全体のためにもなる」 「村のため、ですか?」 「ああ。新しい農地が増えれば、それだけ村の収穫も増える。厳しい冬を乗り越えるには、一人でも多くの人の力が必要なんだ」 ライルはその言葉に、この村での自分の役割を少し実感した。王都では「無能」と蔑まれていたが、ここでは彼の労働が村全体の助けになる。その事実が、作業への原動力となっていた。 「頑張ります。村の役に立てるように」 「その意気だ」ジョナスは満足そうに頷き、「それじゃあ、私はこれから自分の畑に行くとするよ」と言って去っていった。 ライルは新たに教わった技術を試しながら、畑仕事を続けた。空が少しずつ明るくなり、村が一日の活動を始める音が遠くから聞こえてくる。 *** 午後、ライルが畑の別の区画を耕していると、軽やかな足音が近づいてきた。 「ライルさん、水をどうぞ」 振り返ると、メリアが水筒を差し出していた。彼女の籠には新鮮な薬草が詰められており、朝の採集から帰る途中のようだ。 「ありがとう、メリア」 ライルは感謝と共に水筒を受け取り、喉の渇きを潤した。清らかな水が体に染み渡っていく。 「少しずつ形になってきましたね」メリアは畑を見渡して言った。 「ええ、だいぶ耕せるようになってきました。でも、まだ半分くらいですね」 「十分すごいですよ。一人でここまで」メリアは微笑んだ。「そういえば、これから何を植えるんですか?」 「とりあえず、ガルド村長からもらったジャガイモとニンジンの種を植えました。あとは玉ねぎも少し」 「基本的な野菜から始めるのはいいことです。それなら私からのアドバイスがあります」メリアは籠から一束の草を取り出した。「これをジャガイモの周りに植えておくといいですよ。虫除けになります」 「へえ、そんな効果があるんですか」 「はい、昔からの知恵です。母から教わりました」 メリアは畑の一角に、その草をどう植えればいいかを実演してみせた。彼女の手つきは優雅で、土との対話をするかのように丁寧だ。 「こうやって、少し間隔を空けて植えるんです。そうすると、害虫が寄り付きにくくなります」 「なるほど……」ライルは熱心にメモを取るように見つめていた。自然の知恵は魔導書には載っていない、生きた知識だ。 「あと、こっちの苗も差し上げます」メリアは籠から小さな植物の苗を取り出した。「これはミントです。料理にも使えますし、虫除けにもなりますよ」 「ありがとうございます。本当に助かります」 「いえいえ」メリアは微笑んだ。「それと、明日は村の共同食事会があるんですよ。来ませんか?」 「共同食事会?」 「そうです。月に一度、村人みんなで持ち寄った食事を分け合うんです。新顔のライルさんにもぜひ来てほしいな、と村長が言ってました」 「僕でよければ……」ライルは少し照れた。「でも、何か持っていった方がいいんですか?」 「そうですね……」メリアは考え込んだ。「まだ収穫はないでしょうから、何か他のもので。料理は得意ですか?」 「いえ、基本的なことしかできません」 「じゃあ、今日の夕方、私の家に来てください。一緒に何か作りましょう」 「本当ですか? 助かります」 メリアはにっこりと笑って、「それじゃ、また後で」と言い残し、村の方へ歩いていった。 ライルは新たな活力を得て、再び畑仕事に取り掛かった。村の共同食事会。それは彼にとって、村の一員として認められる第一歩のような気がした。 *** 夕方、約束通りメリアの家を訪れたライルは、彼女の指導の下、簡単なハーブパンを作った。小麦粉に村で採れる香草を混ぜ込み、独特の風味を持たせたパンだ。 「こんな感じでいいですか?」 「はい、生地の固さも丁度いいです。こねる時間が足りないと、パンが膨らみませんからね」 メリアの台所は薬草の香りで満ちており、壁には様々な乾燥ハーブが吊るされていた。彼女は村の薬師としてだけでなく、料理の知識も豊富なようだ。 焼きあがったパンは、素朴だが芳ばしい香りを放っていた。 「これなら明日の食事会に持っていけますね」 「ええ、きっと皆さん喜びますよ」メリアは微笑んだ。「さあ、まだ熱いうちに一つ食べてみましょう」 メリアが切り分けたパンを一口頬張ると、外はかりっと、中はふわふわの食感と、ハーブの香りが口いっぱいに広がった。 「おいしい……」 「でしょう? シンプルな材料でも、ちょっとした工夫で美味しくなるんです」 ...

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第8話「銀色の導き手との遭遇」 大雨の翌朝、すっきりと晴れ渡った空が広がっていた。雨に洗われた世界は一層鮮やかに見え、草木の緑は鮮烈に、朝露は宝石のように輝いていた。 ライルは早朝から畑に出て、雨の影響を確認していた。幸い、彼が掘った排水用の溝が効果を発揮し、畑が水浸しになることはなかった。むしろ、雨は乾いた土地に潤いを与え、植えたばかりの種にとっては恵みの水となっていた。 「うん、これなら大丈夫そうだ」 安心したライルは、雨で少し崩れた畝を直し始めた。手慣れた手つきで土を整え、必要な場所には新たに溝を掘り、水はけを良くしていく。 作業をしながら、ふと昨日見つけた銀色の足跡のことを思い出した。雨で流されてしまっただろうか。気になって、畑の隅へと歩いていく。 「やっぱり消えてるな……」 予想通り、柔らかい土は雨で平らになり、足跡の形はすっかり消えていた。ライルが少し残念そうに立ち尽くしていると、背後から小さな気配を感じた。 振り返った瞬間、ライルは息をのんだ。 そこには、銀色の毛並みを持つ子狼が立っていた。 これまでも遠くから何度か見かけていた「銀の守り手」だが、こんなにも近くで対面するのは初めてだった。子狼は成長途中のようで、成獣の狼ほどの大きさはない。しかし、その姿はどこか気高く、普通の野生動物とは違う雰囲気があった。 最も印象的なのはその瞳だった。金色に輝く瞳は、まるで太陽を閉じ込めたような深い光を湛えている。そしてその瞳は、ただの動物のものとは思えないほどの知性を感じさせた。 「こんにちは……」 ライルは思わず声をかけていた。子狼はピクリと耳を動かし、ライルをじっと見つめ返した。逃げもせず、威嚇もしない。まるで反応を見ているかのようだった。 「キミが村の人たちが言う『銀の守り手』なんだね」 子狼は首を少し傾げた。その仕草はあまりにも愛らしく、ライルは思わず微笑んだ。 「名前はあるのかな。私はライル。ライル・アッシュフォードだ」 自己紹介をしながら、ライルはゆっくりとしゃがみこんだ。急な動きで驚かせないように気をつけながら、子狼と同じ目線になる。 子狼はしばらくライルを観察した後、少しだけ距離を縮めた。その動きは警戒心と好奇心が入り混じったもので、時折立ち止まっては状況を確認するように辺りを見回していた。 「そう、ゆっくりでいいよ」 ライルは急かさず、じっと待った。畑の柔らかな土の上で、朝日を浴びながら、人と狼が静かに向き合う時間が流れる。遠くからは村の朝の音が聞こえるが、この小さな畑の空間だけは、不思議な静寂に包まれていた。 やがて子狼は、ライルから約2メートルの距離まで近づいた。その距離で立ち止まり、また金色の瞳でライルを見つめる。 「もう少し近づきたいけど、怖いかな?」 ライルは優しく問いかけた。子狼は返事をするかのように、小さく鼻を鳴らした。そして突然、体を低くして、何かを探るように地面の匂いを嗅ぎ始めた。 「何を探してるの?」 子狼はライルの言葉には反応せず、畑の中を移動しながら、特定の場所を丹念に嗅いでいく。その様子は単なる好奇心とは違い、何か目的があるようだった。 ライルはそっと立ち上がり、子狼の後をついていった。子狼は畑の中央よりやや奥、まだ十分に耕されていない場所にたどり着くと、突然足を止めた。 そして驚くべきことに、前足で地面を掘り始めたのだ。 「ちょっと、そこはまだ……」 言いかけて、ライルは口をつぐんだ。子狼の行動には何か意味があるように思えた。必死に土を掘る姿は、単なるいたずらではなく、明確な目的を持っているように見えた。 ライルは近づいて観察した。子狼は一点を集中的に掘り続けている。しかし小さな前足では、固い土を効率よく掘ることができず、どうやら苦戦しているようだった。 「何かあるのかい、そこに?」 子狼は掘るのを一時中断し、ライルを見上げた。その瞳には何かを伝えようとする感情が垣間見えた。そして再び地面を見つめ、前足で土を掻き分けようとする。 「手伝おうか?」 ライルは鍬を取りに行き、再び子狼の側に戻った。子狼はライルの手にした道具を見て、わずかに後ずさった。 「大丈夫、怖くないよ。キミが掘りたいところを教えてくれれば、僕が掘るよ」 ライルは優しく語りかけ、子狼が掘っていた場所の近くで待った。子狼はしばらく迷うような素振りを見せたが、やがて再び同じ場所へと戻り、地面を指し示すように前足で軽く叩いた。 「ここでいいの?」 子狼は確認するようにライルを見た。 ライルはゆっくりと鍬を構え、子狼が示した場所を慎重に掘り始めた。子狼は少し離れたところから、身を乗り出すようにして見守っている。 鍬が土に入り、一掬い、二掬いと掘り進めていく。何も特別なものは出てこない。しかし子狼は諦めず、ライルが作業を続けるのを見守っていた。 「ここまでで何かあるはずなんだけどな……」 ライルが少し汗を拭いていると、子狼が再び近づき、掘られた穴の縁に前足をかけた。よく見ると、穴の一角に何か固いものが見えている。 「あれは……石?」 ライルは手を伸ばし、土の中の固いものを触った。それは石というより、滑らかな手触りの物体だった。慎重に土を取り除いていくと、白っぽい色の、銀色に光る何かが姿を現した。 「これは……」 完全に取り出す前に、ライルは子狼の様子を確認した。子狼は身を乗り出し、目を輝かせている。明らかにこれを探していたようだった。 「これが欲しかったの?」 子狼は鼻を鳴らし、尻尾を小さく振った。その仕草は、明らかに肯定を示していた。 ライルは掘り続け、ついにその物体の一部を取り出した。それは石のように見えて石ではなく、骨のように見えて骨でもない、奇妙な質感の物体だった。表面には不思議な模様が刻まれており、光に当てると微かに銀色に輝いた。 「これは一体……?」 子狼は物体を見つめ、何か言いたげな表情をしていた。そして突然、ライルの方へと一歩近づいた。これまでで最も近い距離だ。 ライルは息を呑んだ。子狼の姿がこんなに近くで見えるのは初めてだった。銀色の毛並みは朝日を浴びて神秘的に輝き、筋肉の一つ一つが滑らかに動くのが見えた。野生の美しさと、どこか神聖な雰囲気を併せ持つ存在だった。 子狼はライルの手に鼻先を近づけ、物体の匂いを嗅いだ。そして満足したように小さく鳴いた。 「これが欲しかったんだね。でも、これは何なんだろう……」 ライルが物体をよく観察していると、子狼は突然体を起こし、耳をピンと立てた。何かに気づいたような様子だ。 遠くから人の声が聞こえてきた。村の方から誰かが近づいてくるようだった。 子狼は一瞬ライルを見つめ、何かを伝えようとするかのような眼差しを送った。そして一度だけ頭を下げるようなしぐさをし、素早く身を翻して森の方へ駆け去っていった。 「待って!」 ライルは思わず声をかけたが、子狼の姿はもう見えなくなっていた。残されたのは、彼の手の中の不思議な物体と、畑に付けられた新しい足跡だけだった。 「ライルさん、おはよう!」 声の主は、薬草籠を持ったメリアだった。朝の採集に出かける途中だろう。 「あら、何を掘っているんですか?」 「ああ、メリアさん、おはようございます」ライルは慌てて立ち上がった。「いや、ちょっと……」 どう説明すればいいか迷いながら、ライルは手の中の物体を見つめた。 「それは何ですか?」メリアが不思議そうに尋ねた。 「実はよく分からなくて……」 ライルは正直に答えた。そして、銀色の子狼のことも含めて、今朝の出来事を簡単に説明した。 「銀の守り手が直接現れたんですか?」メリアは驚いた様子だった。「それはすごいことです。村では数年に一度見かける程度なのに……」 「本当に不思議な生き物でした。ただの狼ではないような……」 ...

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第9話「封印石の発見」 朝露が輝く早朝、ライルは前日に子狼から教えられた銀色の物体を机の上に置き、じっと観察していた。それは手のひらに収まるほどの大きさで、表面には不思議な模様が刻まれている。光の加減によって銀色に煌めくその物体は、どこか神秘的な雰囲気を漂わせていた。 「これが何なのか、もっとよく調べたいな」 ライルは物体を様々な角度から眺め、指でなぞった。表面の刻印は言語のようでもあり、単なる装飾のようでもある。王都の学院で学んだどの文字にも似ていなかった。 朝食のスープを飲み終え、ライルは畑に出ることにした。今日も作業を進めなければならない。しかし心の片隅では、あの銀色の子狼が再び現れないかという期待があった。 畑に出ると、種を植えた場所からは小さな芽が顔を出し始めていた。毎日水をやり、丁寧に世話をしてきた成果だ。 「おはよう、芽たち」 思わずそう声をかけながら、ライルは水やりを始めた。朝の光を受けて、水滴が葉の上で宝石のように輝く。そんな小さな美しさに心を奪われていると、微かな物音が聞こえた。 振り返ると、そこには前日出会った銀色の子狼が立っていた。 「やあ、また来てくれたんだね」 ライルは優しく声をかけた。子狼は前日よりも警戒心が薄れたようで、すぐには逃げなかった。金色の瞳でライルをじっと見つめ、何かを伝えようとしているようだった。 「昨日の物体のことかな? 持ってきたよ」 ライルはポケットから銀色の物体を取り出した。子狼の目が輝き、一歩近づいてきた。 「これが何か知りたいんだけど、教えてくれる?」 子狼は軽く鼻を鳴らし、体を低くして畑の奥へと歩き始めた。そして振り返り、ライルを見た。まるで「ついてきて」と言っているようだった。 「案内してくれるのかい?」 子狼は再び振り返り、畑を超えて森の方へと向かった。ライルは水やりの道具を置き、子狼の後を追うことにした。 森の入り口に近づくと、子狼は足を止め、ライルが追いつくのを待っていた。そして再び歩き始め、時折振り返りながら、ライルを導いていった。 「狼の案内人か。童話みたいだな……」 ライルは微笑みながら、子狼の後を追った。森の中はまだ朝露が残り、日差しが木々の間から漏れて、幻想的な光景を作り出していた。小鳥のさえずりと風の音だけが聞こえる静かな空間。 子狼はときどき立ち止まり、辺りの匂いを嗅ぎ、進路を確認しているようだった。その姿は野生の優美さがあり、同時に不思議な知性を感じさせた。 「君には名前があるのかな」 ライルがそう問いかけると、子狼は振り返り、一瞬だけライルの目を見た。口が利けない動物に名前を尋ねても仕方ないのに、ライルはその金色の瞳に、何か応答を期待してしまう自分がいた。 森の中を15分ほど歩いた頃、子狼は開けた小さな空き地で足を止めた。そこには大きな樹が一本だけ立っており、その根元には苔むした石が幾つか並んでいた。 子狼はその石の一つに近づき、前足で土を掻き始めた。昨日と同じような行動だ。 「ここに何かあるの?」 ライルは子狼の側に膝をつき、観察した。子狼は懸命に土を掘り、時々ライルを見上げては、また掘り続ける。その姿には切迫感があった。 「手伝うよ」 ライルは子狼の傍らで掘り始めた。柔らかい森の土は手でも掘れたが、少し深くなると根や石が混ざり始め、掘るのが難しくなった。 「少し待っていて。道具を取りに行ってくる」 ライルが立ち上がると、子狼は不安そうな様子を見せた。 「大丈夫、すぐ戻るから」 家に駆け戻り、小さなシャベルと袋を持って再び森へと急いだ。子狼は依然としてその場所で待っており、ライルが戻ってくると安心したように鼻を鳴らした。 「さあ、続きをやろう」 ライルはシャベルで掘り進めた。子狼も側で手伝い、二人で協力して掘り進む姿は不思議な光景だった。 しばらく掘り続けると、シャベルが何か固いものに当たった。 「何かある!」 慎重に土を取り除いていくと、大きな石のような物体が姿を現した。しかし、ただの石とは違う。表面は滑らかで、昨日見つけた小さな物体と同じような模様が刻まれていた。そして最も驚くべきことに、石全体が微かに銀色に輝いていたのだ。 「これは……」 ライルは息を呑んだ。子狼も掘るのを止め、その石をじっと見つめていた。 完全に掘り出すと、その石は想像以上に大きかった。直径約50センチほどの円盤状で、厚さは15センチほど。表面全体に複雑な刻印が施され、中央部分はやや凹んでいた。 「これが昨日の物体と関係あるのかな」 ライルはポケットから小さな銀色の物体を取り出した。子狼は熱心にその様子を見守っていた。物体を石の中央にある凹みに近づけると、驚くべきことに、それはぴったりとはまり込んだのだ。 「合うんだ!」 物体が石にはまった瞬間、かすかな光が走り、刻印の一部が青白く光った。ライルは驚いて手を引っ込めたが、すぐに光は消え、元の静かな石に戻った。 「いったい何なんだ、これは……」 子狼はライルの反応を見て、ゆっくりと石に近づいた。そして驚くべきことに、その石に寄り添うように体を横たえたのだ。まるでその石を守るかのような姿勢だった。 「これは大切なものなんだね」 ライルは子狼と石を交互に見た。子狼の金色の瞳は真剣そのもので、その石の重要性を物語っていた。 「守ろうとしてるんだな。この石を」 子狼はわずかに頷くような仕草を見せた。ライルはその姿に心を打たれた。この子狼は単なる野生動物ではない。何か特別な使命を持った存在なのかもしれない。 「でも、これは何の石なんだろう……」 ライルは石の表面を丁寧になぞった。刻印は何かの言語らしいが、彼の知識ではまったく読めない。中央にはまった小さな物体は鍵のようにも見え、この石が何かの「扉」または「封印」であることを示唆していた。 「封印石……そんな感じがするな」 子狼は耳をピクリと動かし、ライルの言葉に反応した。「封印石」という言葉が何か意味を持つのだろうか。 ライルは考え込んだ。こんな不思議な石を村に持ち帰るべきだろうか。それとも、子狼が望むようにここに残すべきだろうか。石は大きく重い。一人で運ぶのは難しそうだ。 「とりあえず、村長に相談してみようか。ガルドさんなら何か知ってるかもしれない」 ライルがそう言うと、子狼はやや不安そうな様子を見せた。 「心配しないで。この石の場所は秘密にしておくよ。でも、これが何なのか、少し調べてみたいんだ」 子狼はしばらく考えるように沈黙し、やがてゆっくりと石から離れた。そして再びライルを見つめ、軽く頭を下げるような仕草をした。それは信頼の印のようにも見えた。 「ありがとう。必ず戻ってくるよ」 ライルは立ち上がり、場所を記憶するために周囲の特徴をよく観察した。大きな樹、独特の形をした岩、空き地の様子。そして、念のため自分の靴紐の一部を近くの小枝に結びつけた。 「目印代わりにね」 子狼はライルの行動をじっと見守っていた。その金色の瞳には知性と、何か言葉では表せない深い感情が宿っているように見えた。 「じゃあ、また来るね」 ライルが村に戻ろうとすると、子狼は突然ライルの前に立ちはだかった。そして、ポケットから出した小さな銀色の物体を見た。 「これ? これも持っていくといいのかな?」 子狼は首を横に振るような動きをした。どうやらその物体は石と一緒にしておくべきらしい。 ...

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第10話「畑から目覚めた地の女神」 朝の柔らかな光が、畑に立ち込める霧を金色に染めていた。ライルは額の汗を拭いながら、コルが執着する地点を黙々と掘り続けていた。掘り始めてからすでに一時間が経過している。 「何があるんだろうね、ここに」 ライルはつぶやきながら、再び鍬を地面に突き刺した。コルは少し離れたところで、耳をピンと立てて見守っている。ときおり鼻をひくつかせ、何かを感じ取ろうとしているようだ。 「おや?」 鍬の先が何かに当たって、硬い金属音が響いた。ライルは慎重に周囲の土を取り除いていく。 「これは……」 地中から現れたのは、直径三十センチほどの円形の石板だった。表面には、ライルが見たこともない複雑な文様が刻まれている。中央には、花のような形の窪みがあった。 「こんなものが畑の下に埋まっているなんて……」 驚きを隠せないライルの横で、コルが小さく鳴いた。銀色の毛並みを輝かせながら、石板に近づいてくる。その目には、これまで見せたことのない真剣な眼差しが宿っていた。 「コル、何か知ってるの?」 問いかけに答えるように、コルは石板の中央に鼻先を近づけた。その瞬間、石板の文様が微かに光り始めた。 「え……?」 ライルが驚きの声を上げる間もなく、コルは後ろに下がり、ライルの方を見つめた。その目には「触れてみて」と言いたげな色が浮かんでいる。 「これに……触れろってこと?」 コルは小さく頷いたように見えた。ライルは躊躇いながらも、石板の中央にある花形の窪みに恐る恐る指先を伸ばした。 指が石板に触れた瞬間、文様が眩いばかりの光を放った。 「なっ……!」 予想外の光景に目を細めながらも、ライルは手を離すことができなかった。まるで石板に指先が吸い付いたかのように。 光が徐々に強まり、やがて畑全体を包み込むほどの輝きとなった。ライルの周囲の空間が歪み始め、地面から何かが浮かび上がってくる。 「これは一体……」 光の中心からゆっくりと現れたのは、一人の少女だった。 長い翡翠色の髪が風もないのに揺れ、白い肌は朝日を受けて真珠のように輝いている。纏っているのは、古い時代の神官のような純白の衣装。その姿は、ライルがかつて魔導書で見た「精霊」や「神仙」の挿絵そのものだった。 少女はゆっくりと目を開いた。翡翠色の瞳が、困惑したライルをじっと見つめる。 「……」 空気が凍りついたような静寂。 「……あんたが、私を目覚めさせたの?」 透き通るような、しかし不思議と威厳を感じさせる声。ライルは言葉を失い、ただ頷くことしかできなかった。 「……どれだけ時間が経ったのかな……」 少女は空を見上げ、そして足元に視線を落とした。石板の上に立つ彼女の周囲には、見たこともない花々が咲き誇っていた。畑の土が、まるで歓迎するかのように彼女の足元で生命力を放っている。 「私は……フィリス。地を司る神様よ」 そう名乗った彼女——フィリスは、コルの方に視線を向けた。コルは尻尾を大きく振りながら、彼女に近づいていく。 「コル、よくやったわね。本当に賢い子ね」 フィリスはコルの頭を優しく撫でた。コルは嬉しそうに鳴き、フィリスの手に顔をすりよせる。 「えっと……」 ライルが絞り出した言葉に、フィリスは再びライルに視線を向けた。 「そうね、説明が必要よね。戸惑っているでしょう?」 フィリスはクルリと一回転し、スカートを広げながらゆっくりと膝をついて、コルを腕に抱き上げた。その仕草はどこか少女のように愛らしかった。 「このコルはね、地の神獣っていって、私の力の一部を持つ存在なの」フィリスはコルの毛並みを優しく撫でながら続けた。「私がずっと眠っていた間も、コルだけは目覚めていて、私が復活するタイミングを待ちながら、ふさわしい人を探していたのよ」 「ふさわしい……人?」 「そうよ」フィリスはライルをじっと見つめ、少し照れながら言った。「あんたのことよ。コルが、ちゃんと選んだんだから」 「え? でも、僕は……」ライルは自分の手を見つめた。「僕はただの……追放された無能なのに」 「もう! そんな言葉、聞きたくないわ!」フィリスは頬を膨らませ、少し怒ったように言った。「神様である私が認めた人を、誰が無能だなんて言えるの? 今、あんたの中に眠る本当の力を感じなさい」 言われるまま、ライルは自分の内側に意識を向けた。すると、これまで感じたことのない何かが、体の中心で脈打っているのを感じた。暖かく、生命力に満ちた感覚。それはまるで、大地そのものと繋がっているかのようだった。 「これは……」 その瞬間、ライルの視界に不思議な文字が浮かび上がった。 《天恵の地》スキルが発現しました。 地脈との同調率:初期値15% 【対象範囲】:半径5m 効果:農地活性+10%、水分吸収効率+5% 「スキル……?」 驚きに目を見開くライル。王都でいくら努力しても芽生えなかったスキルが、今、畑の真ん中で突如として現れたのだ。 「《天恵の地》……なんて読むんだ?」 「てんけいのち」フィリスが答えた。「地と仲良くなって、恵みを引き出すスキルなの。大地の命を育てて、地脈の力をググッと活性化させる――かなりレアなやつよっ」 ライルの周りの土が、微かに光を帯びていく。足元から膝下まで、生命の息吹のようなものがゆっくりと昇っていく感覚。 「これが……僕のスキル?」 不思議なことに、それは自然な感覚だった。まるで生まれたときから持っていた能力が、今やっと目覚めたかのような。 「なぜ今まで気づかなかったんだろう……」 「封印された場所に触れなきゃ、目覚めることはなかったのよ」フィリスはやや得意げに言った。「あんたの力は、地脈とすっごく深くつながってるんだから。そして今、私と出会ったことでちゃんと目覚めたのよっ」 ライルはまだ信じられない様子で、自分の手のひらを見つめていた。普通の手。でも、地面に触れると確かに温かさを感じる。 「あんたが畑を耕して、種をまいて、実りを育てる……それが《天恵の地》をもっと強くしていくんだから」 フィリスの言葉に、ライルは自分の畑を見渡した。荒れていた土地が、今は確かに生命力を感じさせる。そしてこれからもっと豊かになっていく——その光景が鮮明に想像できた。 「僕が王都で認められなかったのは……」 「あんたの力が目覚めるべき場所じゃなかったってことよ」フィリスはゆっくりと立ち上がった。「地脈がしっかり流れてる場所でこそ、あんたの本当の力が発揮されるの」 コルがライルの足元に寄り添い、嬉しそうに尻尾を振る。まるで「おめでとう」と言っているようだった。 「でも……フィリス。君って、神様なんだよね? なんで封印されてたの? それに、どうして僕が……?」 ...

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